世間解  第371号  平成 31年1月  念仏もうさるべし


 新しい年を迎えました。平成31年。みなさま方にはご本願のおはたらきの中お念仏ご相続のことと思います。昨年中は大変お世話になりまして誠にありがとうございました。縁の中では何がやってくるか分からない日暮らしでありますが、本年も何卒よろしくお願い申しあげます。

 昨年の大晦日にはたくさんの方が鐘をつきに来てくださいました。響いた鐘の音が203回だったそうであります。そして100人を超える方がご本堂にお上がりくださり修正会のお勤めにお遇いくださいました。

 「お正信偈」さまのお勤めの間に、皆さまに阿弥陀さまの前までお進みいただきお焼香をしていただきました。小さな子たちがお父さんやお母さんをチラチラ見ながら見よう見まねでお焼香をする様子はほほえましくありがたい相でした。今年は長く頭をさげて礼拝をされてた方が多くおられたような気がいたしました。

“あかんがな”とお叱りをうけるかもしれませんが…、正直に申しあげますと「何か願い事をされているのかなぁ、去年は色んな事があったからなぁ…」などと思いながらお勤めをさせていただいておったのであります。

そんなこともあり、ご法話のお取り次ぎでは、
『皆さま、色々な思いを持ってお焼香をしてくださったことでしょう、何かを一生懸命願ってお焼香をしてくださった方もおられるかもしれません。
どうぞお焼香のその一瞬だけでなく、今年1年その願いを持ち続けていただきたいと思います。そしてその願いを持つ私を途切れることなく願い支え続けてくださっているおはたらきがあることを知っていただきたいと思います…。』というような事をお聞きいただいたのであります。

そしてこれはお取り次ぎでは申しあげることはなかったのですが、お勤めをさせていただき、
続いて若院・徳行の

  「…聖人(親鸞)一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ     候ふ。そのゆゑは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、  不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。…」

という‘聖人一流章’の『御文章』をお聞かせいただいて、改めて
“ただ、それだけのことやねんなぁ”と味わわせていただいたのであります。

“我々は阿弥陀さまのご本願のお心をあれこれこねくり回しすぎと違うか”と思ったのであります。

蓮如上人は、

「親鸞聖人がお教えくださった阿弥陀さまの救いとは、ご本願のお心を‘素直にお聞かせいただく’ということが肝要である。それは阿弥陀さまの“必ず覚りの身にしてみせるぞ、お念仏を称えながら生きてこい”というご本願のお言葉をそのまま聞き受けるところに阿弥陀さまのご本願のおはたらきによって‘お浄土に生まれさせていただくんやなぁ’という安心が恵まれ“なんまんだぶ、なんまんだぶ…”というお念仏をご相続させていただく身にお育てをいただくのである。私が何かを理解してそのような身になるのではない。阿弥陀さまのご本願のおはたらきが私をそのようにお育てくださっているのである。私の“いのち”の意味と方向は阿弥陀さまのご本願によってハッキリと定められているのである。」
とおっしゃってくださるのであります。

私の“いのち”の意味と方向について、
〈ああだろうか…〉〈こうだろうか…〉〈こんないただき方でいいんだろうか…〉〈どうも得心がいかん…〉〈難しい…〉〈こんな事では…〉
というような私の心と相談するはからいは いらんのであります。

“必ず救う、お念仏を称え聞きながら生ききってこい”

という阿弥陀さまのご本願のお言葉と、おはたらきをこねくり回すことなく
‘なんまんだぶ、なんまんだぶ…’という私のお念仏の響きの中に味わわせていただきながら色んな事にあい、色んな思いを持ってゆかねばならない日暮らしを送らせていただくのであります。

“色んな事あるけど必ず支えてるからお念仏称え聞きながら生きてくるんやで”
‘なんまんだぶ、なんまんだぶ…’ただ、それだけなのであります。               
合 掌



世間解  第372号  平成 31年2月  念仏もうさるべし〜ご法事のこと〜

   
2月であります。今月の「月刊こなつちゃん」で坊守がご年忌の事を書いてくれています。あらためて見せてもらっていますと「あっ、こんな事があったんか…」「へえ〜、もうそんなにたつのか…」「確かにあったなぁ…」などと色々な感慨を覚えます。

先月、1月17日は阪神淡路大震災から丸24年の日でした。

今年は前坊守・星野親子の往生から丸6年、七回忌の年にあたります。あっという間のような気がいたします。阪神淡路大震災は二十五回忌の年となります。
 浄土真宗のご法事は縁や意味合いについてはあらためてお聞かせをいただきたいと思います。

 さて、ご法事のご縁ですが、丸6年で七回忌、24年で二十五回忌?と思われたことはないでしょうか。典型的なのはお別れをして丸2年で三回忌。
「まだ2年しかたってないのに何で三回忌なんやろ?」
「ご法事は1年前にするんですか…?」「数え年でですか…?」などなど色んなお声をお聞きいたします。

 今月はあらためて年回法要の数え方をお聞かせいただきたいと思います。

前坊守を例にとってお聞かせをいただきましょう。こういう事であります。
 皆さまにお世話になりました前坊守は行年(数え年)91才で臨終を迎えました。平成25年2月8日でありました。夕方近くだったでしょうか、それから後々の段取りをつけまして、9日にお通夜、10日にご葬儀、斎場からお骨になって寺に戻ってお勤め…、一応の葬儀式の形が済んで坊守や子どもたちと一息ついたのは午後7時頃だったでしょうか。2月の14日から1週間ごとに7日7日のお勤めで満中陰が済むと4月が目の前ということになっていました。

その後、「ああ、今日は8日か、ばあさんの命日やったなぁ」というような調子で毎日の日暮らしの中を過ごします。それでも秋から冬になりますと「一周忌やなぁ、ご親戚の皆さんにお知らせせんとなぁ」とご法事の準備に取りかかります。平成26年の2月が来て〈一周忌〉これは「1年たったなぁ、一周忌やなぁ」となんとなくイメージ出来ます。

で、それから春のお彼岸や、永代経さまや、お盆や、秋のお彼岸や、報恩講さまや…といいながら日を越して、大晦日、たくさんの方に鐘をつきに来ていただいてお正月。日々の暮らしにかまけて「いうてる間にばあさんのご法事やなぁ」ということになって三回忌であります。
実際は父の二十五回忌と一緒にお勤めをさせていただきましたので、2月ではなかったのですが、厳密には平成27年の2月8日が前坊守の三回忌であります。アッというまでありました、平成25年からは、まる2年しかたっていません。実際はご葬儀から満中陰で、ひと区切りということがありますので、感覚としては丸2年もありません。そこで〈三回忌〉それから丸6年で七回忌であります。

「何で?」ということになりますが、これはちゃんと理屈にかなっておるのであります。
〈何回忌〉ともうします。「忌」には‘かしこまる’という意味があるようですが、‘忌日とは先人の命日をいう’とあります。つまり‘ご命日’であります。前坊守の命日は平成25年の2月8日でありました。これが‘命日’つまり忌日であります。年に一度しかありません。1年たって2月8日が巡ってまいります。平成26年であります。

季節が一巡りいたしましたので、〈一周忌〉ともうしておりますが、‘命日’としては2回目であります。ですから〈一周忌〉は言い方を変えますと〈二回忌〉なのであります。で、次の年、平成27年は3回目の命日であるというので、時は2年しかたってないけど〈三回忌〉ということになるのであります。

 つまり
〈何回忌〉というのは〈何度目のご命日〉という意味であります

「わあ、もう七回忌か、はやいなぁ〜」と日暮らしに追われ日々に疎い私でありますが、私の日暮らしのどの一瞬をとっても阿弥陀さまのご本願のおはたらきは、阿弥陀さまと共にあるご往生くださった方々の願いとはたらきは途切れることなく私を支え続けてくださっておったのであります。

「そやからお念仏出来てんねんなぁ」ご法事は先立たれた方を偲ぶ自身の日の越し方を振り返るご法縁なのであります。               合 掌



世間解
  第373号  平成 31年3月  念仏もうさるべし
浅きは深きなり〜


弥生三月であります。だんだんと暖かくかってまいりまして季節が進んでいることことを感じる頃であります。皆さまにはご本願のおはたらきの中「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏ご相続のことと思います。

「又云、念佛はやうなきをもてなり。」

 これは法然聖人のお言葉であります。


またハッキリと確定は出来ませんが、
「浄土宗安心起行の事、義なきを義とし、様なきを様とす、浅きは深きなり」
というお言葉が法然聖人のお言葉として伝えられています。

先の「又云、念佛はやうなきをもてなり。」とあわせると法然聖人のおっしゃりそうなお言葉といえましょう。

 これはお念仏を称えるということがどういう事なのかをお教えくださるお言葉であります。

 
お念仏を称えさせていただくのだから“一回より十回の方がいいだろう…”“立って称えるより座って称えた方がいいだろう…”“今称えるより後で称えた方がいいだろう…”“ちゃんと意味を分かって称えなければいけないだろう…”
“ボンヤリ称えるようハッキリ称えた方がいいだろう…”“家で称えるよりお寺で称えた方がいいだろう…”
こんなふうに私たちは色々な事を思うものであります。


今、法然聖人が「様なきを様とす」とおっしゃってくださる。
これは〈お念仏をご相続させていただくについて特別な称え様はないんだよ〉とおっしゃるのであります。

つまり〈お念仏させていただく〉それだけなのであります。
どうしたらお念仏出来るようになりますか?とお尋ねいただくことがあります。

 
試しに、小さな声で結構です。次の一行をゆっくりと声に出して読んでみてください…、

なんまんだぶ。なんまんだぶ。なんまんだぶ。なんまんだぶ。


はい、もう四回お念仏をご相続くださいました。

お念仏はそれを称えてそこから引き替えに阿弥陀さまのおはたらきが来てくださるのではありません。

阿弥陀さまの「お前さんかならず覚りの身にしてみせるから、お念仏申しながら大切に生ききってくるんやで」というご本願のおはたらきが〈何時でも〉〈何処でも〉〈どんな状況や思いの私をも〉一瞬も途切れることなく包みきって支え続けてけてくださっている阿弥陀さまのご本願のおはたらきのあらわれなのであります。

私が“何時”“何処で”“どんな相で”“どんな思いの中で”「なんまんだぶ」とお念仏称えさせていただいても、また私の耳にお〈なもあみだぶつ〉が届いても、それは全部、阿弥陀さまの「お前さん必ず支えてるよ」というご本願のおはたらきのあらわれなのであります。

お念仏の称え方や、称え振りや、回数に一切の心配を付け足さない。
一声、一声のご自身のお念仏さまに一声、一声「ああ、支えてくださってんねんなぁ」とお聞かせをいただくのであります。

それが「様なきを様とす」〈お念仏の称え様には特別な称え様がないんだよ〉という法然聖人のおさとしであります。

そして、私の口から出てくださる「なもあみだぶつ」というお念仏は、私が称えているには違いない、そして、“私が称えるお念仏”とおもっている、その意味ではたいしたことのないものと思う「なもあみだぶつ」には阿弥陀さまの「お前を必ず覚りの身にしてみせる」という、〈深い深い尊いお心がこもってくださっているんだよ〉というのが
「浅きは深きなり」というお味わいなのでありましょう。       合 掌




世間解  第374号  平成 31年4月  念仏もうさるべし〜平成のおわりに〜

 四月であります。平成という元号の最後の月であります。

私は昭和三十六年の生まれで昭和が終わった時は二十八才でありました。それから三十年、平成が過ぎようとしています。

改めて振り返りますと、この『世間解』を綴り始めましたのが〈昭和六十一年の十月〉でした。
第一号の最初は、

 “本年も無事に報恩講を迎える事ができ大変有難く思います。ご承知のように 報恩講と申しますのは、「親鸞聖人の恩徳を報ずる」為に行う真宗の寺院に とっては一年の内で最も大切な行事で有ります。
 そこで、本号より、釈尊によって明かされ、インド、中国、日本の高僧方から 親鸞聖人に受け継がれた浄土真宗、更には仏教と言う教えについて色々なこ とを身近な所から皆様方とご一緒に考えて行ければと思い小紙を発行させて
 頂くことにしました。少しずつでも皆様方の聞法のお役に立てて頂ければ有り 難いことで有ると思います。
 そこで、まず始めに
 「浄土真宗の教章」について順に見て行きたいと思います。…”

と、こんな言葉から始めています。何とも堅い文章です…。

しかし、父も母もまだ元気でおりましたし、結婚をさせていただくちょうど一年前で、覚えていませんが…〈何かやろう〉と考えていたのだと思います。当初は三十部くらいをコピーして十三日の定例法要でお配りをしていました。しばらくしてから毎月のお参りでお配りをするようになりました。

一〜二年の間は表面だけで、今のように裏にご法座の案内等を刷ることはしていませんでした。また、タイトルも毎号大きな文字で書いていました。

今のように
〈念仏もうさるべし〉と掲げるようになったのは、平成二十年の一月、第二三九号からでした。これもすっかり忘れてしまっていますが、そのころから親鸞聖人が仰がれた阿弥陀さまの救いのおはたらきはこの〈念仏もうさるべし〉という一言にに摂まるんでないかと味わいだしたのだと思います。平成二十年というなにがしかの節目も〈今年からはずっとこのタイトルで行こう〉とする
キッカケになったのかもしれません。

私が称え、私に届いている「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」というお念仏がどういう意味を持ちどういう徳を私に与えてくださっているのか、

浄土真宗を聞くということはその一点に尽きるといって過言ではない。

“阿弥陀さまは〈なもあみだぶつ〉という言葉の響きとなって私を包んでくださっている”というお育てに遇わせていただいたんやなぁと今は味わっております。

六年前からは坊守さんが『月刊こなつちゃん』を通して日暮らしの中での思いや?(ハテナ)の中からお念仏に、ご法義にふれるご縁を作ってくれています。

若坊守の美緒ちゃんもコーナーを持ってくれることもありうれしいことです。

 「毎月、毎月こんなん書きはんの大変でしょ」とおっしゃっていただくことがあります。そんな時もありもしますが、しかしそのおかげで、改めて和上や先生方からお聞かせをいただいた事を思いだし、反芻し味わわせていただく尊いご縁になっていることは間違いないのであります。

 阿弥陀さまのご本願のおはたらきは、決して変わることなく私を願い続け、支え続け、育て続けてくださっておるのであります。そのおはたらきが私に「なんまんだぶ、なんまんだぶ」とお念仏をさせてくださっておるのであります。

そのおはたらきの中で、『世間解』も『月刊こなつちゃん』も続くことが出来ているのであります。

何かが分かってから、何かが出来てから…、お念仏をるのではありません。

 お念仏を一生懸命唱えて阿弥陀さまのお救いにあずかるのでもありません。

日暮らしの一声、一声のお念仏が“お前さん、必ず支えてんねんで”とおっしゃってくださっている阿弥陀さまがご往生くださった方々が私を支え続けてくださっている何よりの証しなのであります。念仏もうさるべしであります。 合 掌






世間解  第375号  令和 元年  5月 念仏もうさるべし〜変わることのない願い〜

 五月であります。木々の緑の美しい季節です。皆さまにはご本願のおはたらきの中「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏ご相続のことと存じます。
 何時も親鸞聖人が仰がれた阿弥陀さまのご本願のお念仏のことをお聞かせをいただいておるのであります。

 
“念仏”と聞くと今は「ああ、‘なもあみだぶつ’と称えることやな」というふうに多くの方がお考えくださると思います。

しかし、本来仏教においては
“念仏”の‘念’とは厳密には‘明記不忘’という意味で、〈明らかにハッキリと記憶して決して忘れない〉ということだそうであります。

‘仏’とは我々の場合は〈阿弥陀さま〉のことでありますから、本来のお念仏とは〈阿弥陀さまのお徳やお相をしっかりと念いながら‘なもあみだぶつ’と称える〉ということになるのであります。

 そこにはボーッと称えるのではなくしっかりと仏さまのことを念いながら、一回よりは十回、十回よりは百回、百回よりは…と称える心もちや、称える回数が大きな意味を持って考えられていました。お同行さま方は如何でしょうか?

自分のことはよく分かりますので、申しあげますが、

 ご本堂で阿弥陀さまの前に座らせていただき「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏をご相続させていただく。お同行さまのお家に寄せていただいて
お仏壇の阿弥陀さまの前で「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏をご相続させていただく。正直に申しあげますと、私自身「お前さん何時でも〈ああ、阿弥陀さま有り難いなぁ〉と阿弥陀さまのお徳を念いながらお念仏をご相続させていただいているか?」と聞かれたら「ハイ、そうです」はいえません。

朝のお勤めの時もお経さまをご拝読させていただきながら、心の中では
‘今日は、あそことあそこのお家に先ずお参りさせていただいて郵便局で切手買うて、そこからあのお家やな…などとお勤めさせていただきながら一日の段取りを考えながらいている…という事があったりします。

もしも、浄土真宗の“お念仏”が〈阿弥陀さまのお徳やお相をしっかりと念いながら‘なもあみだぶつ’と称える〉そうでなければならない!ということであれば完全に私は失格であります。

そういう形で考えられていた“お念仏”の意味を“阿弥陀さまのご本願の心”を中心として本当のお念仏の意味を明らかにしてくださったのが法然聖人でありました。

「お念仏は私がしっかり唱えてその引き替えに阿弥陀さまのお救いが来るのではない、阿弥陀さまがこれを称えながら生きてこい。必ず覚りの身にしてみせる」と阿弥陀さまの方から私に届いてくださっている尊い行である。とお示しくださり、それをハッキリと承けお教えくださったのが親鸞聖人でありました。


 阿弥陀さまのご本願は「お前さん、どんな事があっても必ず覚りの身になることが出来ると思ってたとえ十遍でもお念仏称える者を若し浄土に生まれさせることが出来なければ私は阿弥陀仏にはならない」というものでした。

そこには、“これだけの修行をして称えよ”とも“これを分かってから称えよ“とも”これだけの数を称えよ”ともおっしゃっておられないのであります。
“お念仏してくれよ”とおっしゃるのであります。本当にタダそれだけなのであります。阿弥陀さまの願いは私に“お念仏してくれよ”とはたらき続けてくださっておるのであります。


たとえ何が変わろうともこの阿弥陀さまの“願い”と“おはたらき”は決して変わることはないのであります。

 浄土真宗の“お念仏”は私がしっかりと阿弥陀さまやご往生くださった方のことを念い続けなければならないというものではありませんでした。
先立たれた方を念って大切に称えるお念仏も、そうでないお念仏も、阿弥陀さまやご往生くださった方々が途切れることなく私を思い続けてくださっているおはたらきのあらわれであったなぁと安心させていただくのであります。       合 掌




世間解  第376号  令和 元年  6月 念仏もうさるべし〜育ててくださる〜



 6月になりました。皆さまにはご本願のおはたらきの中「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏ご相続のことと思います。

 先月、法然聖人が見極めてくださり親鸞聖人が受け伝えてくださった、
“阿弥陀さまのご本願のお念仏の心”をお聞かせをいただいたのであります。

  しかればたれだれも、煩悩のうすくこきおもかへりみず、罪障のかろきおも  きおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こえにつきて    決定往生のおもひをなすべし、決定心をすなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生する也。詮ずるところは、ただとにもかく  にも、念仏して往生すといふ事をうたがはぬを、深心とはなづけて候なり

  法然聖人のお言葉であります。

『どのような人であっても、欲や瞋恚の煩悩が激しいとか、それほど強くないとかいう事にとらわれて善し悪しを気にする。
また罪が深いとか浅いとかを問題としてこれで救われるとか、こんな事では救われない等と自分の心と相談をするのではなく。
唯、口に“なもあみだぶつ、なもあみだぶつ”とお念仏をご相続し、そこに聞こえてくださる“南無阿弥陀仏”の一声一声に“ああ、阿弥陀さまが途切れることなく私を願い続け支え続けてくださっているおはたらきのあらわれだなぁ”と安心をさせていただくのですよ。
この心を本当の信心というのです。この心をお育てくださっているおはたらきが私をお浄土に生まれさせてくださるおはたらきなのです。
私がいただいている阿弥陀さまのお救いのおはたらきは、“これで大丈夫だ”とか“こんな事ではどうしよう”などと自分の心と相談したり、自分の行いや思いを取り繕うのではなく“なもあみだぶつ、なもあみだぶつ…”とお念仏をご相続し“こうしてお念仏出来ているということが間違いなく阿弥陀さまの救いのはたらきの中に生かされていることなんだなぁ”と安心させていただく。これが本当の信心ということですよ。』

というお言葉であります。

 お念仏をご相続いただくことであります。浄土真宗の、親鸞聖人がお味わいくださり、お説き残しくださった阿弥陀さまのご本願の救いはその一言に尽きるのであります。

 「なもあみだぶつ」というお念仏さまは〈私の日暮らしがうまいこと行くための魔除けのおまじない〉でも〈何かよいことがやってくるというマヤカシの呪文〉でも〈タダの気なぐさみ〉でもありません。


阿弥陀さまの“お前さんどんな事があっても必ず覚りの身としてみせるぞ”という真実の智慧とお慈悲のこもった“阿弥陀さまのお徳とおはたらきのすべて”なのであります。

 昭和五十九年の五月頃であったと思います。梯實圓和上が行信教校に入学したての我々に
「まあ、色んな事をいう人があるだろうけど…」と前置きをされて「とにかくお念仏する事だな」とハッキリとおっしゃいました。

その時の私は
「色んな事をいう人」の意味が分かりませんでしたが、
お育てをいただいた今は
‘そんなお念仏は本当のお念仏ではない、自力のお念仏である’などという方のことを指しておられたことが分かります。

和上のお言葉をもう少し分かりやすく申しあげれば、
「まあ、‘そんな心でお念仏したって駄目だよ’とか言ってくる人があるかもしれないけど、そんな事気にせずにとにかく“なんまんだぶ、なんまんだぶ…”とお念仏させていただくことです。」というお言葉であります。
そしてそのあと梯和上は「君たちがご相続しているお念仏が君たちを育ててくださるんだ」とお教えくださったのであります。

 私が何時どんな処で、どんな思いで“なんまんだぶ”とお念仏を称えても、またお念仏さまが聞こえてくださってもそれはすべて阿弥陀さまのそしてご往生くださった方々の“必ず支えているよ”というおはたらきのあらわれだからでありましょう。私がご相続しているお念仏が私を支え。私の心を育ててくださる阿弥陀さまのお喚び声なのであります。               合 掌

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