世間解 第347号 平成29年 

 念仏もうさるべし   - 阿弥陀さまと お釈迦さま ー


 新しい年を迎えました。みなさま方にはご本願のおはたらきの中お念仏ご相続のことと思います。縁の中では何がやってくるか分からない日暮らしでありますが、本年も何卒よろしくお願い申しあげます。今月は阿弥陀さまとお釈迦さまについて少しお聞かせをいただくのであります。

 来月、二月十五日はお釈迦さまのご入滅の日 涅槃会といわれる日であります。

お釈迦さまのご入滅は、ただ“お亡くなりになった”と言わずに“涅槃に入られた”と申しあげるのであります。

涅槃とはお覚りの境地とお味わいいただければよいと思います。親鸞聖人は〈大般涅槃〉ということをおっしゃいます、この上のない覚りの境地ということでありますが、これはただ“お覚りの世界に往かれた”ということにとどまるのではなく“この上ない覚りをひらくが故に迷っている者を限りなく救い続けてゆく”というおはたらきをあらわすお言葉であります。

 おそらく中国に佛教が入ってから描かれたと考えられる、お釈迦さまの入涅槃のご様子をあらわした涅槃図といわれる絵が伝わっています。


日本には鎌倉時代までさかのぼれるかどうかというくらいの図しか残っていないようですが、各地にいくつも伝わっています。そこにはあらゆる生き物がお釈迦さまのご入滅を悲しんでいる相が描かれています。佛弟子や、天の神々、菩薩さま、象や鳥たち牛や蛇…、ありとあらゆる“いのち”が描かれています。(図は岐阜 少林寺蔵)


よく見ると、トラも鹿もいます。縁が巡れば鹿はトラのえさです。本来は一緒に居ることのない“いのち”と“いのち”であります。その“いのち”どうしがお釈迦さまのご入滅を前に一緒に泣いている。



 この涅槃図は仏さまのお慈悲の心があらゆる“いのち”に平等にかかってくださっているということを、あらゆる“いのち”を平等に慈しんでくださるのが仏さまのお覚りのお心であったんだということをお釈迦さまのご入滅のすがたを通して顕してくださっているんでしょうとお教えをいただきました。

  如来さまの智慧と慈悲はあらゆる“いのち”にゆきわたっている。

  だからあらゆる“いのち”がお釈迦さまのご入滅を悲しんでいる。

  私の“いのち”の意味と方向を慈しんでくださる、本当に私のことを私以上に思ってくださる方がお隠れになる、自分の“いのち”の意味を本当に 認めてく  ださった方がご入滅になるということを嘆き悲しんでいる。

  生きとし生ける全ての“いのち”と共感し共鳴しながら全てのモノの“いのち”の掛け替えのなさ尊さを見抜いておられた。

  自分と同じ“いのち”の輝きを一匹の虫の中にもにも一羽の鳥の中にも見てくださってあった。

  それが如来さまの心であった

ということをお釈迦さまのご入滅という仏縁を通して教えてくださるのがこの涅槃図であります。

 さて、何時もお聞かせをいただきます阿弥陀さまのご本願は「十方衆生」と私たちに喚びかけてくださいます。
あらゆる所(十方)のあらゆる“いのち”(衆生)に向かって阿弥陀さまのご本願はかかってくださり、お念仏となってあらゆる“いのち”を育て慈しんでくださる。私の“なんまんだぶ”になってくださっている。

この阿弥陀さまのご本願のお心こそ お釈迦さまのお覚りの内容であり根源であると親鸞聖人はご覧くださいました。

お釈迦さまは我々と同じこの娑婆にお出ましになりお覚りをお開きくださり色々な教えをお説き残しくださいました。そのお釈迦さまをしてお釈迦さまたらしめたものこそ阿弥陀さまのご本願のおはたらきであったということであります。

お釈迦さまのお覚りと阿弥陀さまのご本願のお心は一つである。そんなところのお味わいをもう少し続けてお聞かせをいただきたいのであります。                                                                                    合 掌

世間解 第348号 平成29年 2月

 念仏もうさるべし   - 阿弥陀さまと お釈迦さま(2) ー


 年があらたまり一ヶ月がたちました。有縁皆さま方には各々のご縁の中に阿弥陀さまのご本願のお念仏ご相続のことと思います。

 先月は〈お釈迦さまのご最期にあらゆる生き物がそのご入滅を悲しんだ〉ということをお聞かせいただきました。
お弟子の方々やご縁のあった方々だけではなく牛や馬、猛獣や虫、草木に至るまで、お釈迦さまのご恩を思いそのお心を偲びながらお別れを傷んでいるのであります。

 
われわれ全ての“いのち”を尊いこととして育み支えてくださったのはお釈迦さまであったということをあらゆる“いのち”が仰いでいる
それが涅槃図が私にお教えくださるお心のひとつであります。

 そのお釈迦さまのお心、あらゆる“いのち”と連帯し、あらゆる“いのち”を育み支え続けて、あらゆる“いのち”を我が“いのち”と見そなわしてくださるというお釈迦さまのお心の根源が阿弥陀さまのご本願であるとご確認くださったのが親鸞聖人でありました。

   久遠実成阿弥陀仏 五濁の凡愚をあはれみて
   釈迦牟尼仏としめしてぞ 迦耶城には応現する


 親鸞聖人のお作り残しくださった「ご和讃」であります。

“久遠の昔にあらゆる迷いの中に居る“いのち”を救いきろうとというお覚りをお開きくださった阿弥陀さまがお釈迦さまとなってインドにお出ましくださった”という「ご和讃」であります。

浄土真宗の寺院では特別にお釈迦さまをご安置するということがありません。基本的にはご本尊は阿弥陀さま一佛であります。

ご和讃のお心からすれば、お立ちくださっている阿弥陀さまを拝ませていただくということは、同時にお釈迦さまのお心を拝ませていただいていることになるのであります。

(京都・嵯峨 二尊院のご本尊 阿弥陀さま〈左〉とお釈迦さま)


さて、『仏説無量寿経』の別の翻訳である『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』というお経さまには〈諸天・人民、蜎飛蠕動の類〉という言葉が

出てまいります。何時もお聞かせをいただくご本願の〈十方衆生〉にあたるお言葉であります。

〈十方衆生〉とは〈あらゆる所の生きとし生けるもの〉という意味でありますが、

それをもっと具体的に〈天人であろうと凡夫人であろうと、空中をフイフイ飛んでいるような小さな虫(蜎飛)や地面をごにょごにょと動き回っている

例えばミミズのような(蠕動)生き物まで〉とおっしゃってくださるのであります。

 あらゆる“いのち”と連帯しているお釈迦さまのお覚りの根源がこの阿弥陀さまのご本願のお心だったのであります。

 私はミミズの心は分かりません。ミミズだった時もあったかもわかりませんが、今はミミズの気持ちは分からないのであります。

 そのものを本当に救いきろうと思えばその“いのち”そのものになりきらねばそのものを本当に救いきることは出来ないでしょう。

〈十方衆生〉〈蜎飛蠕動の類〉というご本願のお言葉はただ客観的にあらゆる“いのち”をご覧くださっているということではないでしょう。

 そのものの“いのち”と一体になって救いきる、そのものの心を見通して救いきってくださるというおはたらきでないかなと思います。

 “ミミズになりきってミミズを救いきる”それが〈蜎飛蠕動の類〉というご本願のお心であろうかと思います。

あらゆるモノになりきってくださるから無量寿です。

“いのち”限りありません。

阿弥陀さまが〈十方衆生〉とおっしゃってくださった、それは私になりきって私を包み支え育て続けて救いきるというお心であります。

そうした中の最高の手立てが「なもあみだぶつ」というお念仏だったのであります。もうちょっと阿弥陀さまとお釈迦さまを…。
                                                                                合 掌



世間解 第349号 平成29年 3月

 念仏もうさるべし   - 阿弥陀さまと お釈迦さま(3) ー



 春が近づく今日この頃であります。皆さまには阿弥陀さまのご本願のおはたらきの中「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏ご相続のことと存じます。

 さて、年の初めより阿弥陀さまとお釈迦さまについてお聞かせをいただいておるのであります。

 浄土真宗のご法義の中で、阿弥陀さまとお釈迦さまがおでましくださる譬えがあります。中国の善導大師さまがお説き残しをくださった二河白道というお話しであります。




 …旅人がたった一人で西を目指して無人の荒野を歩いていました。歩みを進めていると目の前に河があらわれます。
 大きな河ではありませんが南北に果てしなく続いています。
その河は北の方は濁流で、南の方は火焔が渦巻いているという独特なものでした。よく見ると火と水が交錯する中間に細い白い道のようなものが見えます。
 見えはしますが火に焼かれたかと思うと濁流に呑み込まれる、道とは言えない一本の線のような心細いものだし向こう岸まで続いているかどうかも分かりません。火と水の河を目の前にして旅人は立ち止まります。

何やら気配を感じて振り返ると遠くか何人もの盗賊や凶悪な獣が自分が一人であるのを見て餌食にしようと迫ってくるのが見えました。

目の前は濁流と火焔の河です。とても渡れそうにありません。この場でじっとしていては郡賊・悪獣に捕らえられてしまうでしょう。
 北や南に走ってもやがては捕まってしまうでしょう。
 河を渡っても火に焼かれるか、水に飲み込まれるか。
 どこかに逃げようにも逃げ道はありません。じっとしていても捕まるのを待つだけ。そこで旅人は思います。

 “渡れるかどうかは分からないけれども今ここに道がある、ならばその道を渡ってみよう。”旅人は
意を決して歩みを進めます。

 その時、東の方から〈安心して行きなさいその道は決して畏れる道ではない〉と遣わす声が聞こえました、同時に西の岸からも〈旅人よ、他に心を惑わされることなくまっすぐに進んできなさい。私は必ずあなたを護ってみせる。〉と喚ぶ声が聞こえます。

その声に励まされながら旅人は歩みを進めます。

 気がつくとか細く見えていた白い道は濁流に呑み込まれることもなく火に焼かれることもない見事な大道でした。

 東の岸までやってきた郡賊・悪獣が「危ないぞ、火に焼かれるぞ、水に呑み込まれるぞこっち戻ってこい」と喚び返しますがその誘惑に乗ることなく旅人は無事に西の岸について、善き友と遇いあうことが出来ました。…



 
ざっとこんなお話しであります。

細かいことはおきますが、北方の水とは私の貪りの心(貪欲)南方の火とは私の怒りの心(瞋恚をあらわしています。

 この貪欲瞋恚は自分中心の考え方(愚癡)によって果てしなく広がり続けます。そして、東からの声はお釈迦さまの発遣(おすすめ)、西からの声は阿弥陀さまの招喚(お喚び声)であります。

 貪欲瞋恚その煩悩のただ中に揺れ動く私にお釈迦さまと阿弥陀さまのお心が途切れることなく、南無阿弥陀仏となって届き、私を支え育てて喚び声が響き続けてくださっていたことに気づかせてくださるのであります。

お釈迦さまは 娑婆にあって阿弥陀さまのお救いがあることをお教えくださる教主(教えてくださる先生)、
阿弥陀さまは お浄土から常に私を支え続けてくださっている救主(救ってくださる親さま)

であることをこの譬えはお教えくださるのであります。

  往け来いと 東と西に 釈迦と弥陀 押され 引かれて 参る 極 楽

行信教校をお創りくださった、利井鮮妙和上のお歌であります。    



世間解 第350号 平成29年 4月

 念仏もうさるべし   - 途切れずに  途切れずに ー


 春・四月であります。色んなところで新しいことが始まる時であります。
有縁皆さまにはご本願のお念仏と共に各々のご縁にお遇いのことであろうと思います。

三月の定例には三年ぶりに淺田正博和上がご出講くださいました。

親鸞聖人のおつくり残しをくださった、
 煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども
  大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり


というご和讃をお引きになってご法話をくださいました。有りがたいお育てをいただいたご縁でした。どうぞ有縁皆さまにも是非一度、西法寺にお越しいただいてご法義をお聞きいただくご縁にお遇いいただきたいと思います。

 さて、先のご和讃ですが、五月の七日が来ますとご往生になられて丸三年になります梯實圓和上に大変ご縁の深いご和讃であります。

 梯和上はあまりご自身のことをお語りになられることはありませんでしたが、そんな中で一、二度お聞きしたお話しがあります。

『…わたしは播州・夢前の生まれで実家の宗旨は天台宗でした。
若い頃に地元の仲間数人と本を貸し借りして読むということをしていました。
モノのない頃で本屋さんというても本がなくて、本を買おうと思ったら家から一冊本を持って行ってそれにお金を足して本を買うというような、そうしないと本屋さんも売る本が無いというようなことでした。

そんなときに友達の一人が  〈倉田百三の『出家とその弟子』が手に入ったけど読むか〉 と連絡をくれました。前から読んでみたいと思っていた本でしたのですぐに自転車に乗って借りに行きました。友人からその本を受け取って何気なしに本を開きますと 見開きに、

極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我

と書いてある文字が目に入りました。漢文としてはそれほど難しいものではありませんから大体の意味は分かりました。もちろん親鸞聖人という名前は知っていましたが、その時はそれがお正信偈のご文であることなどは全く知りませんでしたし、その元は源信僧都のお言葉であることなど全く知りもしませんでした。

しかしこのご文を眼にしたとき何か雷に打たれたような、例えていうと
“暗闇に稲妻が走って一瞬あたりがパット明るくなったかと思うと次の瞬間にスッともとの暗闇に戻る”というような感覚を持ったことを覚えています。〈大悲無倦常照我〉わたしはモノを見る主体で、“私が見て考えて判断する”それが当然であり普通であると思い、疑うことはありませんでしたが、“大悲が常に私を照らしている”
“私は見られているものであった”という今まで思いもつかなかった全く新しい世界があるんだということをほんの一瞬でありますが感じたのであります。そんなことがありました。…』

こんなお話しです。

 
この「煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」という漢文を和語にしてお示しくださったのが先の「煩悩にまなこさへられて…」というご和讃であります。

 ここに“常照我”「つねにわが身をてらすなり」とあります。阿弥陀さまのおはたらきは“つねに”“わが身を”“てらして”くださっているのであります。

親鸞聖人はそのお心を


  常といふは、つねなること、ひまなかれといふこころなり。ときとしてたえず、ところとしてへだてずきらはぬを常といふなり。

と明かされまた、

  「常」はつねにといふ、「照」はてらしたまふといふ。無礙の光明、信心の人をつねにてらしたまふとなり。つねにてらすといふは、つねにまもりたまふとなり。

とお示しくださいます。

われわれは節目節目で色々な事を思い色々なめにあってゆくのでありますが、阿弥陀さまの“お前さん必ず支えてるで”というおはたらきは決して途切れることなく私を護り支え育ててくださっておるのであります。

 “時々の”“途切れ途切れの”私の〈なんまんだぶ〉というお念仏の中に
“常”なる阿弥陀さまのおはたらきがあってくださるのであります。
  合 掌


合 掌

世間解 第351号 平成29年 5

 念仏もうさるべし   - ゆるされてきく ー

 
5月であります。五月晴れという言葉がありますように、お天気に関していえば、1年のうちでも大変気持ちのよい日がある季節であります。

 しかし、お天気もそうであるように私の日暮らしも1年中五月晴れというわけにはまいりません。何時もお聞かせをいただきますが、色々な思いをもち、色々な目にあってゆく中でのお念仏であります。

 梯實圓和上はよく「腹がたったり怒ったりするほとんどの場合は自分の都合に合うか合わんかやねんけどな…。それさえ分かればエエンですけどなかなかそうはいかんわな。」とおっしゃってくださいました。

 ご聴聞させていただくことであります。ご法義にふれていただくことであります。

西法寺では基本的に毎月13日の午後2時から定例法要をお勤めさせていただいております。皆さんで「お正信偈さま」のお勤めをさせていただいてその後ご法話をお聞かせいただきます。

いろんな先生が色んなお話しをお取り次ぎくださいますが、その中心は「お前さん必ず支えてんねんから、色んな事がやってくるけどお念仏申しながら大切に日暮らししてくれよ」という阿弥陀さまのご本願であります。

その阿弥陀さまのご本願のお心を色んな角度から色んなお味わいでお話しをくださるのであります。

 色んな角度やお味わいをお聞かせいただくことによって、私はそれこそ色んな事柄から阿弥陀さまのお心を味わわせていただくお育てをいただくのであります。
皆さま各々にご用事やご都合がおありのことでしょう、ご事情で寺までおこしいただけない方もおありでしょう。しかし、お念仏を聴きながらご法義にふれていただくことは出来ます。


 阿弥陀さまのお心をお聞かせいただくことを「ご聴聞」ともうします。

 「…昔のいうたらおかしいけど、少し前まではお寺参りしてくださる、おじいさんやおばあさんはよくご法義を聞くこと、ご聴聞することを“お育てにあずかる”ということをいうていらっしゃいました“今日はありがたいお育てにあずかりました”いうて帰って行かれることがありました。この頃あんまり言うたり聞いたりせんようになりましたが、素晴らしい言葉だと思います。」

これも梯實圓和上がよく仰っていたお言葉です。

 親鸞聖人はこの「聴聞」というお言葉に「ユルサレテキク」というご解釈をされておられます。

“ゆるされて聞く”ということでありましょう。もともと「聴」には「ゆるす」という訓もあるそうですが、その場合は「聞き入れる」という意味になるそうであります。つまり阿弥陀さまのお心を聞き入れるということになるのでしょう。

 私はこの親鸞聖人のお言葉を「聞くことを許されている」というふうに味わわせていただいております。
いまご法義を聞かせていただけているのは決して“普通の、あたりまえのことではない”のであります。“聴くはずのなかった私をご法義を聴く者にお育てくださった”そして“聞けるはずのなかったお救いの法をを聴かせていただいている。”ということであります。

 いまご法義を聴く身にお育ていただいた。そこには大きな大きな阿弥陀さまのおはたらきがあってくださった。ということであります。

 ご聴聞をしてその引き替えに阿弥陀さまのお救いにあずかるのではありません。阿弥陀さまのお救いがちゃんとあってくださったんやなぁとお聞かせいただくのであります。

どうぞ阿弥陀さまのお心を、先立たれた方が間違いなしにご往生くださってあるんだという、先立たれた方々が阿弥陀さまとともに今の私を支えてくださってあるんだというおはたらきをご聴聞いただきたいと思います。

「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏を称えそれをお聞きいただくだけで充分なのですが、どうぞご縁の調う方は、何時でも聞けると思っている元気なときに、時間が作れるときに、寺におこしいただき“許されて聞かせていただいている”ありがたさをご一緒に味わわせていただき、お育てにあずかりましょう。

合 掌


世間解 第352号 平成29年 

 念仏もうさるべし   - 無量寿ということ ー


 六月、今年も半年が過ぎようとしています。皆さまにはご本願のおはたらきの中に「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏ご相続のことと存じます。

 毎日のようにお同行さま方のお宅にお参りに寄せていただきます。

ここしばらくは「暑くなってきましたねぇ」という言葉とともに「しかし、もう六月ですか、はやいですねぇ」とお話しをさせていただくことでございます。

 本当に時の流れが速く感じますが、それはそれで大変恵まれたご縁の中に日暮らしさせていただいておることの証かもしれません。

 本当に辛いことや悲しいことがあると時はながく感じるものでありましょう。
それにしても「もう六月か!」と思わずにはおれません。

 しかし、本当は毎月のように「もう○月か!」と思っておるのでしょうし、
それは去年も一昨年も同じように思っていたのであります。

 お同行さま方とお話しをさせていただいていてよく「ご院さんらまだお若いからそんな事ないやろけど」とおっしゃっていただきます。

私ももうそんなに若くもありませんが、“そんな事あるのであります!”本当にはやく感じます。

 ひと月が“あっ”という間だと思います。今、まさに「ついこの前『世間解』書かせてもろたとこやのに…と思っています。」

 去年の暮れから大晦日があり、お正月があり、二月があり、三月も四月もあり五月を過ごしたはずでありますが、大晦日やお正月という特別なイベントのことは覚えていても“三月も四月もあったはずやのになにしとったんかなぁ”というのが正直なところであります。大晦日とかお正月とか…、イベントなら覚えてはいるけれどもそれ以外はすーっと流れているのであります。まさに日常であります。日常はさらさらと流れてゆくのであります

 何かがあると滞るのであります。さらさらと流れてゆく日常が本当はありがたいのでありましょう。

「お前、今年の二月十八日何してた?」と尋ねられて即座に答えられる方が何人おられるでしょうか。

うかうかと日暮らしをさせていただいておる私は全く覚えがありません。

今年がそうですから「二十五年前の四月十五日は?」なんかいうて尋ねられたら私なら「アホか、そんなもん覚えてるわけないやろ」いうて怒るかもしれません。

自分が生かされてきた“いのち”でありながら私“いのち”への思いは途切れ途切れであります。阿弥陀さまのおはたらきは途切れません。


  〈たとひ第十八の念佛往生の願、ひろく諸機を攝して済度するににたりといゑども、   佛の御命もしみじかくば、その願なほひろまらじ。〉

  〈これをもてこれをおもへば、済度利生の方便は、壽命の長遠なるにすぎたるはなく、   大慈大悲の誓願も、壽命の无量なるにあらわるゝものなり。〉

  〈弥陀如來の壽命无量の願をおこしたまひけむも、御身のため長壽の果報をもとめた   まふにはあらず、済度利生のひさしかるべきために、また衆生をして忻求のこゝろをお   こさしめむがためなり。〉

 このご法語は法然聖人のお言葉であります。

詳しいことをお聞かせいただくいとまはありませんが、
阿弥陀さまが寿命無量の みになってくださっているというのは一切の“いのち”を〈残らず覚りの身にしてみせる〉〈あらゆる“いのち”に本願の心を知らせてみせる〉という大悲のあらわれであるというご法語であります。

うかうかと日常を暮らす私を途切れることなく願い続け支え続けてくださっているおはたらきがあってくださるのであります。それは私の“いのち”の一瞬一瞬何処をとっても離れることのないおはたらきであります。

 私はイベントしか記憶にありませんが、阿弥陀さまにお聞きすれば、何十年前の何時であろうと“ああ、あのときのお前さんはこうだったよ”とお答えくださるのであります。

阿弥陀さまの大悲が色々なご縁となって、途切れずに私を支え私をお念仏もうすものに育てあげてくださっておるのであります。

 阿弥陀さまが寿命無量であってくださっているというのは大悲の寿命であってくださっているということでありましょう。         合 掌




世間解 第353号 平成29年 

 念仏もうさるべし   - お盆の おつとめ ー


                                                                               
 7月・夏がやってまいります。皆さまにはご本願のおはたらきの中「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏ご相続のことと存じます。

 今から150年ほど前、讃岐に庄松さんという方がおられました。

人々から慕われる大変ありがたいお同行さまでありました。
この庄松さんがわれわれがお勤め(読経)をさせていただくことの意味を分かりやすいお言葉で教えてくださっています。

あるお坊さんに難しい漢字が並んでいるお経を突き出され「読んでみろ」といわれた庄松さん、恭しくそのお経さまをいただかれると「“庄松を助けるぞ”と書いてあるわい」とおっしゃったそうであります。

 阿弥陀さまのお心をお伝えくださるお経さまは何処を開けてどの字を押さえても阿弥陀さまが私に向かって「お前さん、必ず支えてるからな」と喚び続けてくださっている“阿弥陀さまからのお喚び声に他ならないんだよ”ということを庄松さんは「“庄松を助けるぞ”と書いてあるわい」という言葉でお教えくださっているのであります。

 

さて、西法寺では八月に入りますとお盆のお勤めをさせていただきます。〈お盆だからこのお勤めと決まったモノはありませんが、以前からお盆には「帰三宝偈」というお勤めをご拝読させていただいております。

 中国の善導大師というお方がおつくり残しをくださった偈文であります。

「偈」とは詩の形で如来さまのお徳を讃える御文のことをいいます。

「帰三宝」とは三つの宝(三宝)におまかせ(帰依)して、めぐまれた“いのち”を全うしてゆきましょうということなのですが、
〈帰〉とは帰依、より所におまかせをするという意味です。順うといってもいい。常にそこに帰ってゆくと味わわせていただいてもよいでしょう。

ここに言われる三つの宝とは私の“いのち”を根源から支えるものである佛・法・僧の三つをいいます。

〈佛とは目覚めたお方ということで、あらゆる束縛や苦悩の根源をハッキリと見据えてそれから解放され、人々を真実に目覚めさせてくださるお方をいいます。

〈法〉とは仏の説かれた真実に目覚めてゆくための、安心して“いのち”を全うずるためにはどのように考えどのように生きるのかという教えであります。

〈僧〉とはその佛の教えを聞き、佛の教えに従って和やかに暮らしている仲間のことです。いま僧というと僧侶の略でお坊さんのことをいいますが、この場合の僧は和合衆と翻訳される〈サンガ〉という言葉に僧という漢字を当てたモノです。

 バサッとお聞かせをいただくと、

阿弥陀さま(佛)のご本願のおはたらきの中に
阿弥陀さまの「お前さん必ず支えてるから、色んな事がやってくるけどお念仏申しながら生ききってくるんやで」という阿弥陀さまのおはたらき(法)を聞きながら
辛いことや、楽しいことや、悲しいことや、嬉しい事を通して
一緒に「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏を称え、聞きながら生きてゆく家族や、仲間(僧)を本当の支え(帰依)として日暮らしさせていただきましょうということであります。


何時もお聞かせをいただきますが、私が三宝に帰依したから支えてくださるのではありません。

阿弥陀さまや先立たれた方が私に三宝のあることを知らせ、三宝に気づかせてくださるように私をお育てくださっているおはたらきがあるのであります。

私が「なんまんだぶ、なんまんだぶ」とお念仏できているのもお経さまをご拝読できているのも阿弥陀さまや先立たれた方の途切れることのないおはたらきの賜であります。


  “盆はうれしや別れた人も晴れてこの世にあいに来る”

山本仏骨和上はお盆になるとこのおうたをご自坊の掲示板に書いておられたそうであります。

先立たれた懐かしい方が、思い出すことのできるそのままのお姿で、阿弥陀さまと一緒になって途切れることなく何時でも私を支えてくださっている。お盆はそのことを改めて味わわせていただく尊い仏縁であります。

 さあ、お盆のご縁、先立たれた方を想いお礼を申しながら
「帰三宝偈」お勤めの、お念仏の声の中に〈お前さん、必ず支えてるよ〉というおはたらきをお聞かせいただきましょう。                     
 合 掌


世間解 第354号 平成29年 

 念仏もうさるべし   - めでたき本願 ー


 八月になりました。関西では“お盆”であります。厳しい暑さの中ではありますが、有縁皆さまにはご本願のおはたらきにつつまれて、色々な思いと共に
「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏ご相続のことと思います。

 法然聖人と同じ頃に明遍僧都という学徳兼備の高僧がおられました。

東大寺で三論宗を学ばれ後に法然聖人のお念仏の教えに遇われて高野山の蓮華谷というところに隠遁されて、いわゆる蓮華谷聖の祖としてお念仏の生涯を送られたお方でありました。

 この明遍僧都が、〈お念仏は称えているけれどもどうも心が晴れない〉
お念仏のお味わいに迷って法然聖人を尋ねてこられたことがありました。その時の法然聖人との問答が『和語灯録』というお聖教に残されています。

現代語にするとざっとこんなことです。



僧都「末代悪世の私たちのような凡夫はどのようにすれば生死の迷いから離れることができるのでしょうか」

聖人「南無阿弥陀仏とお念仏をもうしてお浄土に生まれさせていただくんだと安心させていただくことでございましょう」

僧都「それは何時も法然さまからお聞きして、その通りだと心得ております。そのことを確実に思わせていただくにはどうすればよいのでしょうか     ?それにつけて、法然さまの仰るように日々お念仏をさせていただいておりますが、お念仏を申しておりましてもすぐに心が散り乱れてしま     います。 心が散り乱れるのはどうすればよいでしょうか?」

聖人「あなたの心が散り乱れるということは、私の力のおよぶところではございません。」

僧都「それをどうすればよいのかということを是非とも承りたいと思って  参上いたしましてございます。」

聖人お念仏を申せばたとえ心が散り乱れていようとも阿弥陀さまのご本願によってお浄土へ生まれ   させていただくことが出来るのですよ。 
   阿弥陀さまの ご本願を仰いでおおらかにお念仏申されることが何よりのことと存じますよ。」

僧都「そうでございました。そうでございました。そのことがお聞きいたしたかったのでございます。」

 そういうと明遍僧都は帰ってしまわれた。問答の前後にはいささかの挨拶の言葉もなかった。

 明遍僧都が帰られてから法然聖人はその場にいたお弟子の方々に、

「一瞬たりとも煩悩から離れることの出来ないこの世に生まれてきた私たちは心の乱れを押さえることはできないモノです。
 それは人間として生まれてきた者が眼や鼻をつけて生まれてきていることと同じです。
 散乱心を捨ててこそ往生出来るのだと考える必要はありません。
 散乱心のままお念仏申す者を往生させてくださるご本願が“めてたき本願”なのです。

 明遍さまの〈念仏しているが心が乱れてしまう〉というご心配はいらないことなのですよ。」とおっしゃいました。




 というお話しであります。

“散心ながら念仏申す物が往生すればこそ、めでたき本願にてはあれ。”

原文にはこうあります。

お念仏申すについて私の方に条件はないのであります。

 われわれが“いのち”恵まれているこの娑婆は縁の中で色々なことがやってきます。その一々に私は心を振り回されます。

「何がやってくるか分からん世界だからこそ何がやってきたも大丈夫なモノに遇わせてもろとかんといかんのとちゃうかな…。」梯實圓和上のお言葉であります。

お念仏をご相続させていただいたからといって何かが劇的にかわるわけではありません。しかし、だからこそお念仏申すについて私の方に一切の条件を求めない“めてたき本願”に遇わせていただいて本当によかったなと思うのであります。                                



合 掌



世間解 第355号 平成29年 

 念仏もうさるべし   - 帰依所 ー


 9月であります。皆さまにはご本願のおはたらきと共に「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏ご相続のことと存じます。

 おかげさまで今年も盂蘭盆会のおつとめをさせていただきました。

若院(徳行)のおかげで以前よりはずいぶんと楽にお参りを続けさせていただくことが出来ました。こちらがだんだんとガタガタになってくる頃に次がお出ましをくださいまして誠にありがたいことであると思います。

 今年は、お盆のおつとめに寄せていただきますと「今日はこれをご一緒に
ご拝読させていただきましょう」と申しあげて〈帰三宝偈〉のプリントをお配りをいたしましてご縁に遇わせていただいたのであります。

皆さまが声に出してご一緒におつとめくださりこれも大変有りがたいことでございました。

 毎月お参りに寄せていただいておりますお宅には『世間解』の七月号でざっと〈帰三宝偈〉についてお聞かせをいただいておりましたのでそうではなかったのですが、お盆のご縁にだけお参りに寄せていただくお同行の何人かの方から

「なるほど、この帰三宝偈いうのはお盆で帰ってきはるからおつとめするんですか?」とお尋ねをいただきました。

“お盆には先立たれた方が帰ってきてくださる”という思いからのお尋ねであります。“お盆のご縁に先立たれた方を改まった形でお偲びをする”大変ありがたいことであると思います。

 そのお尋ねの折にも少しだけお聞かせをいただいたのでありますが、改めて〈帰三宝偈〉の“帰”の意味をお聞かせいただくのであります。

 公式のと申しますか一応の結論から申しますと、この場合の“帰”は先立たれた方が〈帰る〉という意味ではありません。私が〈帰依する〉つまり“おまかせをする”という意味の“帰”であります

「お正信偈」さまの「帰命無量寿如来~」の帰命と同じ事と、もっと言えば
ご信心と同じ意味とお考えいただいて結構であります。

〈三宝〉に〈帰依〉する心を〈偈〉にしたものが〈帰三宝偈〉というおつとめであります。

 バサッと申しますと
“私がこの“いのち”を生きて行く中で本当に依り所としなければならないものは何か”

“私のこの“いのち”を生ききってゆく本当の依り所となるものは何か”
ということであります。

 それが阿弥陀さま(佛)阿弥陀さまの教え(法)その教えに聞きながら歩んでゆく仲間(僧伽の三つ、つまり三宝なのだとお教えくださっているおつとめであります。

阿弥陀さまのご本願の教え、おはたらき、それは私の“いのち”の意味と方向を知らせてくださるんだと梯實圓和上はお教えくださいました。

 三宝におまかせした時、私の本当の帰り場所がハッキリするのであります。
逆にいえば、三宝に遇わない限り私の本当の帰り場所はハッキリしないのであります。

「阿弥陀さまのお浄土は“ただいまぁ”いうて帰って行けるところなんだなぁ」
とおっしゃってくださったのも梯實圓和上
でありました、親が兄弟が知った人が先生が…あらゆるご縁の人が阿弥陀さまと共に待っておってくださる場所だからであります。

 この三宝は私が探すのでも作りあげるのでもありません。阿弥陀さまのご本願の広がりとして常に私を包んでくださっておるのであります。

 娑婆では色々な事がやって参りましょう、そのどんな事柄の中にも阿弥陀さまの、ご往生くださった方々の「お前さん必ず支えてるで」というお心があってくださるんだといただければこんな有り難いことはありません。

 色んな目にあい、色んな思いを持たねばならない私でありますが、落ちついている時の私も、イライラしていいる時の私も、ニコニコしている時の私も、カーッとなった時の私も三宝は常に私を支えておってくださるのであります。

 阿弥陀さまのご本願のお言葉が、お念仏を慶んであられる方々が、そして私の称えているお念仏が、私の本当のより所(帰依処)となるんだよと親鸞聖人はお教えくださるのであります。                                              
                                                                     合 掌


世間解 第356号 平成29年 10

 念仏もうさるべし   - 易行道 ー


 10月になりました。有縁皆さまには阿弥陀さまのご本願のおはたらきの中「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏ご相続の事と存じます。

「顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽」

親鸞聖人さまがおつくり残しをくださいました、「正信念仏偈」(お正信偈さま)の一節であります。
インドにお出ましになった龍樹菩薩さまのご法義をお讃えになられた一節で、〈難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ。〉と読ませていただきます。

 阿弥陀さまのお救いをどのように味わうのか、阿弥陀さまのお救いのはたらきはどのようなものであるのかという事を、もう少し言葉をかえますと、私の救い(覚り)が実現する方法に二つの進み方がある。それを龍樹菩薩さまは“難行”“易行”という分け方でお示しくださったのであります。

 自分の力をたよりにして、覚りをひらいてゆこうとする考え方を難行道という。これは山道を自分の力でコツコツと登ってゆくようなものだ。

それに対して

阿弥陀さまのご本願のおはたらきにまかせて覚りの身にならせていただこうとする仏道を易行道という。
これは、ちょうど船に乗って船の力で、向こう岸にわたらせていただくようなものである。


と、おっしゃるのであります。

難行道と易行道。表面上は難行道こそ仏道を歩んでいるという感じがして格好がいいのであります。易行道などは何かずぼらで、ただ楽をしているだけような感じがいたします。このことについては少なくとも3つの面から考えさせていただかねばなならないように思います。

 1つは仏道としての私の目標であります。
これは“悪い事やめて、できるだけエエ事を、正しい事をさせていただきましょう”という事で人と人との日暮らしの中ではよく考えておかねばならない事であります。その意味では難行道的な心の持ちようは大変大切であり素晴らしいことであり、目指すべきことでしょう。

 その上で、では、私は何時でも何処でもその素晴らしいことをやり通し、たゆまずにやり続ける事ができるのかという問題であります。
これが2つ目です。

救いという事を考えた時に、私がすくわれるという事を考えた時に、〈これさえ出来れば、これさえやっていけば〉という事があれば、それがどんな簡単なことでも私の上に出来る時と出来ない時が出てまいります。

 この二つはすくわれる私の側からの考え方であります。

私を救うてくださるおはたらきの方からはどうでしょう。

どんな些細な事でも救いに条件がつけば条件に適うものとかなわない者が出来る。そうすると救いに漏れる者が出来る事になる。
あらゆる“いのち”を漏らさずに救うという阿弥陀さまのご本願をその通りに実現するためには救われる側に一切の条件をつけないという事が必要になるのであります。

 それが易行道であります。船の上ではオリンピックのマラソン選手であろうが、寝たきりの人であろうが、ケガをしていようが、病気をしていようが、犬であろうが、蛇であろうが、泳げようが、泳げまいが一切関係はありません。

乗せてくださっている船の力がその“いのち”を無条件に等しく向こう岸に渡してくださるのであります。

龍樹菩薩がおっしゃった“阿弥陀さまの易行道の救いというのはこれだよ”と
親鸞聖人はおっしゃるのであります。

易行道とは私の方から見て、私の方の了見で〈難しいか〉〈易しいか〉という話ではないのであります。

「それが真実に適う(かなう)道ならどれほど困難な事であってもしなければならないんだ、それが仏道というものなんだよ。」
とおっしゃってくださったのは梯實圓和上でした。


“真実に適う道”それが阿弥陀さまが決めてくださった〈念仏申しながら生きよ〉という道だったのです。その易行の道、船に乗って向こう岸へわたるという事…。そんなあたりを来月にもう少しお聞かせをいただきたいと思います。                                   

合 掌





世間解 第357号 平成29年 11

 念仏もうさるべし   - 易行道 その2ー



 11月であります。色々な、思いがけない事柄にあわねばならない日暮らしでありますが
そんな中で色々な事にあいながらでも「はやいなぁ~」と月日の流れの速さを振り返ることの出来るご縁のありがたさを思うことであります。

  

しかれば、大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに衆禍の  波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を  証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。

親鸞聖人の主著『教行証文類』に明かされているお言葉であります。

梯實圓和上の現代語訳ではこんなお言葉になります。

こうして、大悲本願の船に乗って、摂取不捨の光明がくまなく照らす大海に浮かべば、この上なく尊い功徳の風が静かに吹いて、念仏の衆生を彼岸の浄土へと送り届けてくださいます。さまざまな禍の波は転じて功徳の順風に変わっていきます。すなわち無明煩悩の闇を破ってすみやかに限りない智慧の光の世界へと到れば、煩悩の寂滅した最高の覚りを極め、大悲心を起こして、苦しみ悩む人びとを救うために、十方世界に身を現して普賢菩薩のように自在の救済活動をさせていただくのです。よく知るべきです。』

 難しいお言葉にちがいはありませんが、阿弥陀さまの私を救いきってくださるおはたらきが私に届いてどのようなご利益を与えてくださるのかをあらわしてくださったご法語であります。


 梯和上がよくおっしゃった「親鸞聖人の味わわれた阿弥陀さまのお救いのご法義に遇わせていただくと私の“いのち”の意味と方向がハッキリするんだなぁ」というお言葉をあらためて味わわせていただけるご法語であります。

何度も何度も口にかけてお味わいいただきたいお言葉であります。

 親鸞聖人は阿弥陀さまのお救いのおはたらきを“大悲の願船”とおっしゃってくださるのであります。

 先月もお聞かせをいただきましたが、船に乗ってしまえば若い者も、歳を重ねたものも、元気な者も、病気の者も、智慧のあるものも、愚かなものも、男も、女も…そういう一切の“いのち”のあり方の区別はなく船の力がその“いのち”を運んでくださるのであります。その者の、体力や、経験や、知識や、置かれている立場や、性別や…そんなものは一切問わずに船の力がその人その人を同じように同じ場所に運んでくださるのであります。

 阿弥陀さまの救いのはたらきはそのようなものだとおっしゃるのであります。こういう救いのおはたらきは私の何かの値打ちと引き替えに届いてくださるのではありません。阿弥陀さまの「お前さんを救わずにはおかないぞ」という大悲のお心が大悲のお心のまま届いておってくださるのであります。

〈易行〉(いぎょう)といいます。読んで字の如く〈易い行〉です〈誰でもが歩むことの出来る仏道〉と申しあげていいかと思います。

 どうかすると「浄土真宗はお念仏だけ申しておればいいんだ、特別な修行をする必要はないんだ」と言われます。そして、それをして〈易行である〉と考えられたりいたします。全く違うということはありませんし、キッチリと誤解のないようにいえばそのように申しあげることも出来ましょう。

 しかし、私はこの頃、易行とは私の方で考えて“これは難しい”“これは易しい”というこちらの物差しで申しあげることでなはなくて、阿弥陀さまがあらゆる“いのち”を決して漏らすことなく救いきる、覚りの身にしてみせるには救われる側、つまり私に「ああせい、こうせい」などといったなら出来る人と出来ない人、出来る時と出来ない時が出てくる。

そうすると救いから漏れる“いのち”が出来ることになる。

そういう漏れる“いのち”を出さないようにするには〈阿弥陀さまが自ら私に届いて私を念仏する者に育てあげる以外に方法はない〉その阿弥陀さまの私を救いきるお手立てを〈易行〉と申しあげるのではないかなと味わわせていただいておるのであります。もう少し続きを…   合 掌



世間解
 第358号 平成29年 12

 念仏もうさるべし   - 易行道 その3ー
 

12月であります。いよいよ歳の暮れがやってまいります。

同じ1日1日の積み重ねには違いないのでありますが、年があらたまると何かしらの感慨を持ちます。


桐溪順忍和上
は「新年を迎えるという形を紡ぎだしてくださった先人のお心を思います。心新たに歩み始めるという思いを持たせていただけるというのは有り難いことであります。」とおっしゃっていました。

 色々な事にあい、色々な思いを持ってゆかねばならない日暮らしではありますが、そんな中にあるからこそ決して変わらない阿弥陀さまのおはたらきの中に一歩一歩お念仏の“いのち”を歩ませていただくのであります。

さて先月は、

  
しかれば、大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに衆禍の  波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を   証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。

という親鸞聖人の主著『教行証文類』のお言葉を  梯實圓和上が、

『こうして、大悲本願の船に乗って、摂取不捨の光明がくまなく照らす大海に浮かべば、この上なく尊い功徳の風が静かに吹いて、念仏の衆生を彼岸の浄土へと送り届けてくださいます。さまざまな禍の波は転じて功徳の順風に変わっていきます。すなわち無明煩悩の闇を破ってすみやかに限りない智慧の光の世界へと到れば、煩悩の寂滅した最高の覚りを極め、大悲心を起こして、苦しみ悩む人びとを救うために、十方世界に身を現して普賢菩薩のように自在の救済活動をさせていただくのです。よく知るべきです。』

と現代語訳してくださったお言葉をたよりにお聞かせをいただきました。

この
「大悲の願船」というお言葉で私は何時も思い出すお話があります。山本仏骨和上のこんなお話しであります。

『…お同行たち、お浄土へ往く、お浄土へ生まれさせていただくということをどう聞いとるかね?“死んでから暫くしてお浄土へ生まれさせていただくんだ”と考えておるお同行が多いんじゃないかね?私はどうもそう思うんだ、この前〈お浄土へはどうしていくんだろうか、大悲の願船と聞いているからおおかた船にでも乗っていくんでしょう~〉と話しをしていたお同行がおられた…。そんな聴き方しておるからいかんのよ!息が切れてあっちウロウロ、こっちウロウロしてお浄土へ往くんじゃないのよ!みなさん、そこのところをよ~く聴聞いてください。息が切れてからどこかをウロウロしてお浄土に寄せていただくのではありません。今がお浄土への道中よ!“今がお浄土への道中、息が切れたらそこがお浄土なのよ!”分かりましたね。今が、お浄土へ生まれさせていただく道中です。分かりましたね。…』

私は山本和上からこのお話を何度かお聞かせいただきましたが、梯實圓和上が山本和上の七回忌のご法事でこのお話をしてくださった時、山本和上を偲ばれながらこんなことをお教えくださいました。

『…山本先生はよく“今がお浄土への道中だ”とお教えくださいました。実はこれ山本先生が遠藤和上からお聞きになったお言葉なんですね。山本先生はよく私に“遠藤先生からええコトを聞かせていただいた〈今がお浄土への道中だ、息が切れたらそこがお浄土だ〉と、息が切れたらそこはお浄土なんだなぁ”とおっしゃってました…。今の一歩一歩が、一息一息がお浄土へ生まれさせていただく道中なんですね。大切にさせていただかねばなりません。』


 色んな事にあい色んな思いを持ってゆかねばならない私の日暮らしの一つ一つが、お浄土へ生まれ阿弥陀さまと同じお覚りの身となって、あらゆる“いのち”を願い続け支え続けていくことの出来る身にならせていただくまでの尊い道中である。

私に値打ちがあるからそういう道を歩めるのではありません。

阿弥陀さまの大悲のお心が私にそういう“いのち”の日暮らしを与えておってくださるのであります。私の“いのち”はお浄土からのはたらきの中にあって、まっすぐにお浄土に向かっている。私が「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏申せていることがその何よりもの証である。新しい歳を前に心新たにそんなことを思わせていただくのであります。                    
 
                                                             合 掌


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