世間解    平成24年

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│ せ けん げ │
│ 世間解 第二八七号 │  念仏もうさるべし
│ 平成二十四年 一 月 │ ーあたらしいとしにー
│ 発行 西法寺│
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 新年あけましておめでとうございます。本年もご一緒にご聴聞重ねさせていただきお互いお念仏に触れ育てられる日暮らしを送らせていただきたいものであると思っております。なにとぞよろしくお願い申しあげます。
 さて、缶コーヒーだったでしょうか、「この国の住人は流れる時の中で新年という一つの区切りをつける…」というようなコマーシャルを見ました。
 細かいことは置きましてなかなかに味のある言葉やなぁと思ったのであります。昨年は春から大きな災害がありまして言葉では言いあらわせないような思いを全ての人がお持ちになったことでありましょう。未だに大きな意味ではなかなか復興に向かう道筋も見えてきていない状況であります。
 しかし、新年を迎えて一区切りをつける。何か区切りをつけることが出来るという事のありがたさを思うのであります。区切りをつける、これは言い換えることが許されるなら新しい出発であります。
 無責任なこと言うなとお叱りを受けることにもなりますが、苦しかった過去を引きずるのではくて前向きの心を繋げてゆくのではないかと思っています。
 いろいろな思いを積極的に繋げてゆくのであります。そのための一区切り。
お正月はありがたいのであります。
 もちろん被災地に居られる方々はそれどころではないでしょう。しかし、少し離れたところに居て、やろうと思えばいろいろなことが出来る我々は、出来るだけのことを繋げてさせて頂くのであります。そのためのあらたな出発でないかなぁと今私は思っています。
 田村一二という福祉教育に一生をかけられた先生がおられました。田村先生は「福祉とはつながりの水平化だ」とおっしゃっていました。「高い低い・強い弱い・老若男女・出来る出来ない…そんな相反する思いを超えてそれぞれがそれぞれを尊重しながら行われるもの、福祉とはそういうものである。」ということであります。「例えば何かを作りあげる作業をする。力のある人は力を、お金のある人はお金を、道具のある人は道具を、設計の出来る人は設計を、人を和ますことの出来る人は穏やかさを、元気のある人は元気を…、自分では一歩も動けなくて力もなくて何も出来ないその人はニコニコ笑っているだけでいい。“おお笑顔で励ましてくれてるなぁ”汗を流して働くものはそう受け取る。これがつながりの水平化です。」そんな話しを先生からお聞かせいただいたことがあります。
“話しは分かるけどそんなもんそう簡単にできますかいな”と言っていては何も生まれません。いや、どないかするとそう思ってしまう私を励まし・支え・矯め直してくださるのがご法義の力なのであります。
 今年の法語カレンダーの表紙は「如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし」というお言葉でありました。親鸞聖人のご和讃のお言葉であります。正確には、
「信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩をしり 称名念仏はけむべし」というお言葉であります。厳密にお聞かせいただくならば後半の部分だけ取り出すと少し意味が変わってしまうかとも思うのですが、しかし、意をくんで味わわせていただきますと、とにかくお念仏をご相続させていただくことです。気がついたときに「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏をご相続させていただくことであります。ご注意いただきたいのは“如来さまのご恩を思ってお念仏する私、お念仏を励む私”が問題なのではありません。「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏をご相続させていただいておれば、その励んでいるお念仏が私に阿弥陀さまのご恩を気づかせてくださるのであります。私がお念仏をして阿弥陀さまに遇おうとしても遇えはしません。“ああ、こんなふうに私を念仏するものに、お念仏に気づくものに育ててくださったおはたらきがあってくださったんやな”と“私が称えるお念仏が阿弥陀さまのおはたらきだ、阿弥陀さまがいつでもどこでも私を願い続け支え続けてくださっている力のあらわれれだ”といただくならば私は私のお念仏を通していつでもどこでも阿弥陀さまに遇わせていただくことが出来るのであります。どんなことがやってくるか分からない日暮らし、それでもいろんなご縁に支えられながら、そして出来ることがあれば支えながら、ありがたくも恵まれた“いのち”お念仏とともに精一杯に日暮らしさせていただきたいことだなと年の初めに思っています。         合 掌
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│ せ けん げ │
│ 世間解 第二八八号 │  念仏もうさるべし
│ 平成二十四年 二 月 │ ーさわりおおきに 徳おおしー
│ 発行 西法寺│
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 新しい年を迎えて一月が過ぎました。皆さまにはそれぞれにお念仏ご相続のことと存じます。さて、今月の法語カレンダーのお言葉は、
  こおりおおきに みずおおし さわりおおきに 徳おおし
という御法語であります。親鸞聖人が大変尊敬された曇鸞大師という方のお徳をお讃えくださったご和讃のお言葉であります。
正確には、『罪障功徳の体となる こほりとみづのごとくにて こほりおほきにみづおほし さはりおほきに徳おほし』というご和讃であります。
罪や障りは功徳のモトである。それはちょうど氷と水の関係と同じようなものだ、氷が多ければそれが溶けた時の水の量も多いように、障りが多ければそれを通して味わう功徳も多いんだ…というほどの意味でしょうか。申しあげるまでもありませんが、罪や障りを認める、あるいは許す御法語ではありません。
罪や障りが多ければ多いほどそれを哀れみ慈しんでくださる阿弥陀さまのお心が強く深くかかってくださっているということが一つです。
もう一つは罪や障り、自分勝手な心を通して阿弥陀さまがこんな私を支えてくださってるんやなぁ申し訳ないことであったなぁという思いが一つであります。
私がお育ていただき続けている行信教校に通い始めた二十五年も前のことです。
その頃〈若先生〉と申しあげていた利井明弘先生がこんなお話をくださいました。
『…、君らね、山本仏骨先生知ってるやろ。ありがたい先生や。もうお歳は七十五になりはるかな、勧学和上やんか。山本和上ね、勧学和上やし仏教のことは端から端までご存じいう方やんか。お歳も積み重ねられて、いろいろな経験をされてね、人生のあらゆる事を通られたというような和上やね。それだけありがたい、尊い和上やからね、あのお歳になられて、御法義が身について、いろいろな経験をされて…。そんな和上やからいつでも、もうニコニコされてると思わへん?思てるでしょ。そらそやん。そやけどね、ごっついこと言うたげましょか…、ちゃうねん。ちゃうねんよ。あのね、山本和上かて怒りはんねんて…。怒りはんねんけどね、その後が僕らと違うねん。僕らと違うんはね、カーッとなって怒りはるけどね、怒りはったすぐ後に怒りはったことに気ぃつきはんねん。これがごっついわ…』
 行信教校で、なんか知らんけど漢字の勉強ばっかりせんとあかんのかなぁと思っていた私が何かしらホッとした、“浄土真宗の勉強は難しい顔して漢字の勉強ばっかりするだけでもなさそうやなぁ”と思わせていただいたお話でありました。まだ父親が元気な頃、昭和六十三年でしたか、山本和上が西法寺にご出講くださったことがありました。晩に和上のご自坊まで車でお送りした時のことです。なんのお話をすることも出来ませんし、少なからず緊張して運転してますと、他所の車が急に前に割り込んできました。慌ててブレーキを踏んで、怖かったなぁと思てますと、後ろから和上が「危ないやっちゃなぁ〜」とおっしゃって、すぐ後に「ふっ、人の悪いことはすぐに見える…。なぁんまんだぶ、なぁんまんだぶ…。」とおっしゃいました。まさに明弘先生にお聞きしたとおりでありました。また、腹立ててしもたな〜と気づかれて、そう気づくようにお育てくださった阿弥陀さまのおはたらきと、縁の中で腹を立ててしまう私を目当てにかかり続けてくださっている阿弥陀さまのご本願のお力をお味わいになり、およろこびになる。それが「なぁんまんだぶ、なぁんまんだぶ…。」という和上のお念仏さまであってくださったのでしょう。
『阿弥陀さまのおはたらきが私に届いて、口に顕れてはお念仏となり、心に顕れては慶びとなり、また慚愧となる。』これは山本仏骨和上からお聞かせいただいたお言葉であります。己の至らない思いや行動を通して、その振る舞いの中に「ああ、こんな私を阿弥陀さまは願い、支え、お育てくださってるんやなぁ」と、自分の愚かさ加減に気づきそこにかかってくださっている阿弥陀さまのお心にお育ていただく。そうなると、うれしい、楽しい、喜び事だけが御法義を味わうご縁になるのではありません。苦しいことを乗り越えて煩悩をなくしてゆけ、という御法義ではありません。出来るだけ慎むに越したことはないけれどもつい出てしまう、その煩悩。人や自分を苦しめる罪障りを通して阿弥陀さまのお育てを味わってゆく。「罪障功徳の体となる」であります。      合 掌
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│ せ けん げ │
│ 世間解 第二八九号 │  念仏もうさるべし
│ 平成二十四年 三 月 │ ー念仏のひとを 摂取してー
│ 発行 西法寺│
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 三月になり「春が近づいてきたなぁ」と思うと同時に、「ああ、もう一年になんねんなぁ」と震災からの日をあれやこれやと思うことであります。
皆さま方には阿弥陀さまのご本願に包まれながら「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏ご相続のことと存じます。さて、今月の法語カレンダーのお言葉は、
  念仏のひとを摂取して 浄土に帰せしむるなり
という御法語であります。親鸞聖人のお師匠さまである法然聖人のお徳を勢至菩薩のお徳に寄せてお讃えくださったご和讃のお言葉であります。
正確には、『われもと因地にありしとき 念仏の心をもちてこそ 無生忍にはいりしかば いまこの娑婆界にして。念仏のひとを摂取して 浄土に帰せしむるなり 大勢至菩薩の 大恩ふかく報ずべし』という一連のご和讃であります。
法然聖人は智慧の法然房と讃えられ、そのお徳を阿弥陀さまの智慧の徳を顕す菩薩さまとして拝まれていた勢至菩薩のお徳に寄せてご和讃くださったお言葉であります。細かい意味は置かせていただきますが、親鸞聖人は、〈勢至菩薩が法然聖人の相となって私の前に顕れてくださって、「南無阿弥陀仏」というお念仏の本当の意味をお教えくださった。おかげで私は間違いなしに阿弥陀さまのお浄土へ生まれさせていただくるんだと思いとらせていただく身となりました。本当にありがたいことでございました。お師匠さまにお教えいただいたとおりに歩ませていただきます。〉というようにお味わいくださっておられるお言葉でございましょう。〈念仏のひとを摂取して 浄土に帰せしむるなり〉浄土真宗の、阿弥陀さまのご本願のおはたらきを示す大切なお言葉であります。が…、少し注意をして拝読させていただかねばならないお言葉でもあります。
そのままいただけば〈「なんまんだぶ、なんまんだぶ」とお念仏する人を摂めとってお浄土へとみちびいてくださる〉ということで、その通りなのでありますが、これはよその人に向いて使うとおかしくなるのであります。
“私はお念仏してるけど、あの人はお念仏シテヘンからあかんなぁ〜”などとお考えいただいてはアカンのであります。
 私自身が今〈なんまんだぶ、なんまんだぶ〉とお念仏ご相続させていただいているという事実の上に〈ああ、阿弥陀さまのご本願が今私を摂めとってくださって、私の力になって、私に今こうしてお念仏をさせてくださってんねんなぁ〉〈今、私にこうしてお念仏させてくださってる力が私の“いのち”を間違いなしにお浄土へと帰り生まれさせてくださるお力やねんなぁ〉とそういただく。
 お念仏するとか、せえへんとか、私はしてるとか、あの人はしてへんとか、そんな事を問題にするのではなくて、とにかく〈なんまんだぶ、なんまんだぶ〉とお念仏申させていただくことです。ほんで、お念仏させていただいて、聞こえてくださる〈なんまんだぶ〉に“ああ、阿弥陀さまが一緒に居ってくださって、ご往生くださった方が今私を支えてくださって、こうしてお念仏になってくださったんねんなぁ”といただくんです。なんべんもお聞かせをいただきますが、お念仏したらどないなりますか?とお考えいただいているうちはどないもならんのであります。
〈なんまんだぶ、なんまんだぶ〉とお念仏ご相続いただいておればそのお念仏が私に阿弥陀さまの、ご往生くださった方の今のおはたらきを味わわせてくださるのであります。
『阿弥陀さまやお浄土はあるかないか…、居てはるか居てはらへんか…そんな事考えることがあるかわかりませんけど、そうやのうてね、居っていただかねばならんのが阿弥陀さまであり、あっていただかねばならんのがお浄土なんです。』こうお教えくださったのは梯實圓和上でした。
 娑婆に居る限り、‘そうでない方がいいんだ’と分かっても自分勝手な思いから決して離れることの出来ない私。その私を放っておくことが出来ないから阿弥陀さまがご本願をおたてくださったのであります。そのご本願が私を念仏する者に育て、私をお浄土に生まれさせてさとりの身としてくださる。お念仏したから摂取されるのではありません。阿弥陀さまのご本願が私を摂めとってくださっているからこそ私は「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏申す身になっておるのであります。                       合 掌
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│ せ けん げ │
│ 世間解 第二九〇号 │  念仏もうさるべし
│ 平成二十四年 四 月 │ ー本願力に あいぬればー
│ 発行 西法寺│
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 春、四月であります。入学・進学・就職…と新しい事が始まる季節であります。皆さまにはご本願のおはたらきの中、お念仏ご相続のことと思います。
さて、今月の法語カレンダーのお言葉は、
  本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき
というお言葉であります。親鸞聖人のご和讃の一節です。正確には、
  本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき
  功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし
というお言葉で、七高僧のお一人、天親菩薩さまのお徳をお讃えくださったご和讃であります。「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき」何度も何度も声に出していただきお味わいいただきたいご法語であります。
 何でもないようなお言葉でありますが、このお言葉は阿弥陀さまのおはたらきの全てを言いあらわしてくださったいるようなお言葉ですし、私の日暮らしや、“いのち”を支えてくださるお言葉であるともいえましょう。
「本願力にあう」ということ「むなしくすぐるひとはない」ということ。
私自身の身の上にかけて味わわせていただくお言葉であります。
「本願力にあう」の「あう」は漢字では「遇う」と書きます。親鸞聖人は“思いがけずに尊いものにあう”時にこの「遇」と言う字を使われて“もうあう”とか“たまたま”と訓じられますが、本願力に遇うのは“私の努力”や“私の値打ち”などの私の側の何かが役立って遇うのではありません。阿弥陀さまの「お前さん、どんなことがあっても放ってはおかんぞ」というご本願の力によって遇わせていただく事が出来るのであります。もっと言えばご本願のお力以外に私が阿弥陀さまのご本願に遇いえることは出来ないのであります。
 いつもいつもお聞かせをいただくことであります。
阿弥陀さまの「お前さん、必ず私の浄土に生まれることが出来ると欲えよ。娑婆にご縁があるうちはその“いのち”を大切にして“なんまんだぶ、なんまんだぶ”とお念仏を称えながら日暮らしをしてくれよ」
というご本願が力となって私に届き、その願いの通りにおはたらきくださっておるのであります。
“力”とはものの形を変えたり、ものを動かしたりするはたらきのことであります。私が“なんまんだぶ、なんまんだぶ…”お念仏ご相続できているのは阿弥陀さまの力が届いてくださっている証拠であります。
 「何かのご縁が整えば、お念仏するようになる者が今、ご縁が整うてお念仏してるんと違うんですよ。何がどう転んでもお念仏なんかするはずのなかった私が、阿弥陀さまのご本願のおはたらきとお育てによってこうしてお念仏する身にならせていただいたんだと、私がお念仏のご縁に今あっていると言うことは、言葉では言い表せないほどの事なんだといただく事です。」こうお教えくださったのは天岸浄圓先生でした。ご往生になった利井明弘先生がよく仰っていました。「人の噂話やったらほっといてもする私の口からお念仏が出てくださる。出るはずのない私の口からお念仏が出てくださる…。阿弥陀はんのお育てやで…、全部…」
 「むなしくすぎない」、梯和上は「“むなしくすぎない”これはつまり、充実しているということだな、私の人生は阿弥陀さまのご法義に遇うことによってどこまでも充実したものとなる。法然聖人は“生けらば念仏の功積もり、死なば浄土に参りなん”と仰った。生も死も、イヤ私にとっては死はない、死ぬのではない。臨終はやってくるがそれは死ではない。阿弥陀さまの浄土へ生まれさせていただく尊いご縁だ。それが往生ということだ…。生きている間はいろんな事がやってくる。そのいろんな事を、よろこびも悲しみも、あらゆる事をお念仏の日暮らしの中で頂戴し、あらゆる出来事を阿弥陀さまのお心を味わうご縁といただき、息が切れた先に限りのない“光”と“いのち”のお浄土を思う。そして、浄土に生まれれば今度は阿弥陀さまとともに苦しみ悩むあらゆる“いのち”を支え救うはたらきをさせていただく。それが私の“いのち”の意味です…」とお教えくださいました。ご本願に遇わせていただいた私の“いのち”は生も死も充実したものとして支えられてゆくのであります。         合 掌

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│ せ けん げ │
│ 世間解 第二九一号 │  念仏もうさるべし
│ 平成二十四年 五 月 │ ーただ 仏を称すべしー
│ 発行 西法寺│
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 薫風香る五月であります。皆さまにはご本願のおはたらきの中、お念仏ご相続の事と思います。さて、今月の法語カレンダーのお言葉は、
  極重の悪人は ただ 仏を称すべし
というお言葉であります。このご法語は私どもが日頃おつとめをさせていただいている、「正信念仏偈」の一節で、親鸞聖人が源信僧都のお徳をお讃えくださった一段のお言葉で、〈極重の悪人はただ仏を称すべし。われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。〉という一連のご法語で現代語訳では「きわめて罪の重い悪人はただ念仏すべきである。わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、煩悩がわたしの眼をさえぎって、見たてまつることができない。しかしながら、阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる」と述べられた。となります。私たちがご法義をお聞かせいただく時に気をつけてさせていただかねばならない事がいくつかありますが、そういうことの一つが“ご法義の言葉は我が身にかけて味わう”ということであります。つまり、ここで言われる“極重の悪人”とは“私自身のことであった”といただく事です。「私そんな悪いことしてません!」という表面的な事実だけを言っている言葉ではありません。ご法義にお育てをいただくと自身の内面の愚かさ、至らなさに気づかされてゆくのであります。利井明弘先生にお聞きしたお話です、「…お育て受けたら自分のあほさ加減が知らされるねんて、ほんで、こんな私を願てくださってるねんなぁと、私の相を通して阿弥陀さんのおはたらきを知らせていただくねん。しかし、これはなかなか出来へんよ、自分の愚かさを認めるいうことは…。ぼくね、昔、津村別院に勤めてたことあんねん。その時、事務所で隣に座ってた男と気ぃ合うてよう一緒に遊んだんよ。或る時遅うまで飲んでね、次の日の朝、ボーッとしながら仕事してたらね、〈…しかし、俺ら情けないなぁ、お坊さんやのに酒飲んで、次の日ふらふらで仕事して、あかんなぁ…〉いうて隣の男がボソボソ言うねん。ほんでぼくも〈ほんまやなぁ〉いうたらね、その男パッとぼくの方見てね〈アホか、ワシはお前よりましじゃ〉言うねん。わかるでしょ、僕らはこんなもんよ…」と仰っていました。
 親鸞聖人のお言葉に“弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。”という有名なご法語があります。
 このご法語は‘阿弥陀さまが私一人のために永い永い時をかけてお考えくださった。本当に有り難いことであった。’と解説され考えられることが多いようでありました。しかし、梯實圓和上は〈そうじゃないんだよ〉とおっしゃって、〈これは親鸞聖人の慚愧のお言葉だ、‘私、親鸞が居たために阿弥陀さまに大変なご苦労をおかけした’という親鸞聖人の‘申し訳ないことであった’という自身の罪の深さ、愚かさを心から反省しておられる、そうとしか言いようのない阿弥陀さまに対するお言葉だ、ここを見誤るとこのご法語が、‘ただ、ありがとうございました’というだけの薄っぺらいものになってしまうんだ。〉とお教えくださいました。
 阿弥陀さまの『お前さん必ず支えてるで、この娑婆の縁が終わったら間違いなしに私と同じさとりの身にしてみせるで』というご本願の実現・完成を最後まで妨げておったのが他ならない自分自身であった。こうお味わいくださりその上でご法義をお取り次ぎくださったのが親鸞聖人でありました。お弟子の方々はそういう親鸞聖人の後ろ姿の中に、今、この方を支え、育てているおはたらきこそが阿弥陀さまのご本願のおはたらきであったとお味わいになったのでありましょう。親鸞聖人は‘ワシは全てがわかったこのワシに付いてこい!’という方ではありませんでした。‘何にもわからないこの私を阿弥陀さまのご本願が支えてくださっています’と、「なんまんだぶ、なんまんだぶ」とお念仏をご相続し、、そのご自身のお念仏の声の中に阿弥陀さまのご本願のおはたらきを確認しお味わいくださるお方であったのであります。
 〈極重の悪人は ただ 仏を称すべし〉
お念仏ご相続させていただく事であります。             合 掌
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│ せ けん げ │
│ 世間解 第二九二号 │  念仏もうさるべし
│ 平成二十四年 六 月 │ ーただ 如来にまかせまいらせー
│ 発行 西法寺│
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 六月になりました。季節が進む中有縁の皆さまには阿弥陀さまのおはたらきに包まれてお念仏ご相続のことと思います。さて、今月の法語カレンダーの言葉は、
  ただ如来にまかせまゐらせおはしますべく候ふ。
という、親鸞聖人のお手紙(『御消息』)の一節のご法語であります。
 『御消息』の内容を詳しくお聞かせをいただくいとまはございませんが、教名房という弟子さまが親鸞聖人に‘なもあみだぶつ’というお念仏(名号)と阿弥陀さまのご本願の関係についてお尋ねになったことに対するお返事のお手紙であります。で、そのお手紙の結論が先のご法語であります。
 ごくごくバサッとお手紙の意味をお聞かせいただきますと。
〈誓願(阿弥陀さまのご本願)と名号(なもあみだぶつ)とは別々のものではなくて、‘お前さん必ず支えきって救いきってみせるよ’という阿弥陀さまのお心であるといただく事だよ〉というようなことでありましょうか。
 ‘ご本願’とは阿弥陀さまがこの私を支えきり救いきるにはどのようにすればいいだろうかとお考えくださり、〈ヨシこうしようと〉願ってくださった阿弥陀さまのおはたらきの本であり。‘なもあみだぶつ’はそのご本願が〈その通りに完成したぞ〉ということを私に告げ、その通りに今はたらいてくださっている阿弥陀さまの具体的はおはたらきの顕れであります。
阿弥陀さまのご本願がその通りに完成した相が〈なもあみだぶつ〉であり、私が〈なもあみだぶつ、なもあみだぶつ…〉とお念仏申せているということはそのまま阿弥陀さまの「お前さん必ず支えてるから安心してくれよ」という〈ご本願〉が間違いなしに完成したということを私にお知らせくださり、いつでもどこでも私を支え続けてくださっている阿弥陀さまの今のおはたらきなのであります。
 阿弥陀さまの〈ご本願〉は‘こないなってくれたらエエのになぁ’と只願ってくださっているのでなかったのであります。
 “阿弥陀さまの願いは‘力’となってくださっている”と確認しお味わいくださりお説き残しをくださったのが親鸞聖人でありました。
 そのおはたらきを親鸞聖人は〈他力〉あるいは〈本願力〉という言葉でお示しくださるのであります。
 いま〈他力〉という言葉は日常語として一人歩きしていますし、仏教でもいろいろな意味で使われています。。それはそれといたしまして、親鸞聖人がお味わいくださった阿弥陀さまのご法義に潤い、お育てを受けている我々は決して〈他力〉を‘他所の人の力をあてにする’という意味で用いることは慎まなければなりません。親鸞聖人はそんな事は一言も仰っていないのであります。
 〈他力〉あるいは〈本願力〉とは“阿弥陀さまが今私を支えてくださっている阿弥陀さまのご本願のおはたらき”の事であります。
阿弥陀さまのご本願はそのまま、その通りの力となってくださったのであります。
その力の具体的な顕れの一つが“私が今〈なんまんだぶ、なんまんだぶ…〉とお念仏申す事が出来ている”ということであります。
 もう一つ大切なことは、阿弥陀さまのご法義は‘私の何か特別な状況において何とかしてくださる’というものではなくて‘私の日常に直接してくださっている’ということであります。いろんな事に悩み苦しむ…、もちろんうれしい事やたのしい事もある…。うまいこと行くこともあるけど、どちらかと言えばつまずくことの多い私の日暮らし。その何処をとっても離れずにかかり続けてくださっているのが阿弥陀さまのご本願のおはたらきであります。
〈ご本願て何やろう…。〉〈お念仏したらどないなんねやろう…。〉学問の中ではそれを研鑽することは大事だけれども、今の私の上に間違いなく阿弥陀さまのおはたらきがかかってくださってんねんなぁ。おねんぶつ出来てるのは阿弥陀さまのご本願の出来あがった証拠やねんなぁ。と自分が称え、耳に届いてくださっている‘なんまんだぶ’をそういただいて安心させていただく事です。
 ああだろうか、こうだろうかとこちらであれこれ計らうのではなく‘ありがとうございます’といただく事、それを〈まかせる〉というのであります。
   ただ如来にまかせまゐらせおはしますべく候ふ。
とは、〈なんまんだぶ〉とお念仏ご相続させていただく事です。    合 掌
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│ せ けん げ │
│ 世間解 第二九三号 │  念仏もうさるべし
│ 平成二十四年 七 月 │ ー有情を よぼうて のせたもうー
│ 発行 西法寺│
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 七月になりました。本格的な夏になりますが、皆さま方には阿弥陀さまのご本願に包まれてお念仏ご相続のことと思います。
 さて、今月の法語カレンダーは、
  生死のうみに うかみつつ 有情をよぼうて のせたもう
というご和讃のお言葉であります。正確には、
  弥陀観音大勢至 大願のふねに乗してそ
  生死のうみにうかみつゝ 有情をよはふてのせたまふ
というお言葉であります。短いお言葉の中にありがたいお心がたくさんこもっているご和讃であります。
〈観音大勢至〉とは観音菩薩さまと勢至菩薩さまのことで、阿弥陀さまの慈悲と智慧のお徳を顕してくださる菩薩さまでいらっしゃいます。それだけではなく親鸞聖人は聖徳太子を観音菩薩の化身(生まれ変わり)お師匠さまの法然聖人を勢至菩薩の化身と仰いでいらっしゃいますから、このお言葉の中に阿弥陀さまの智慧と慈悲がより具体的に聖徳太子、法然聖人となって私に直接してくださってあったという親鸞聖人のお慶びを味わわせていただく事が出来るように思います。何れにしましても阿弥陀さまの智慧と慈悲はご本願のおはたらきの顕れである“なもあみだぶつ”となって私に届いておってくださるのであります。
 さて、ここに「生死のうみにうかみつゝ」「よはふて」「のせたまふ」とご和讃くださっています。ありがたいお言葉であります。
‘生死のうみ’とは私の日暮らしの全体であります。いろんな事が起こってくる、平穏な時もあれば大変な事柄に飲み込まれてどうしようもないような時もやってくることがあるという私の日暮らしを‘海’に喩えておっしゃってくださるのであります。
 大切なことは、“生だけ”でもない“死だけ”でもない“生死”と押さえてくださっていることであります。生きることにも、臨終を迎えて“いのち”終わっていくことにも、いや、“いのち”終わったその先にも尊い意味を与えてくださるのが阿弥陀さまのおはたらきであるということであります。
‘うかみつゝ’もありがたいお言葉です。〈前に浮かんでいた〉でも〈これから浮かぶだろう〉でもありません〈今まさに浮かび続けて〉私を見護り、支え、願ってくださっておるのであります。
「よはふて」は‘よぼうて’と発音いたしますが、漢字で書けば「喚」という字になります。親鸞聖人はこの字にただ「ヨブ」ではなく「ヨバフ」とカナを振られます。「ヨバフ」といわれた時には“喚び続ける”ということだそうです。
阿弥陀さまは、私に「必ず支えているから安心してお念仏を称えながら日暮らししてこいよ」と何時でも、何処でも、決して途切れることなく、ずーっと喚び続けてくださっておるのであります。
 梯實圓和上は「阿弥陀さまが喚び続けておってくださるというのは、私が背き続けてるからだろうな…」とお味わいくださいました。
そして「のせたまふ」、これは文字通り“大願の船に乗せてくださる”ということであります。親鸞聖人に「乗る」ということについて、
  「乗我願力」といふは、「乗」はのるべしといふ、また智なり。智といふは、
  願力にのせたまふとしるべしとなり。願力に乗じて安楽浄刹に生れんとしる
  なり。
というご法語がございます。「乗」というのは「のりなさいよ」ということであるが、それはただ「乗りや〜」とおっしゃっているということではなく「乗せてくださるんだ」「どんなことがあっても乗せずにはおかないんだ」という如来さまの智慧のおはたらきのことであり、そのおはたらきがそのまま私を臨終と同時にお浄土へ生まれさせ、阿弥陀さまと同じお覚りを開かせてくださるという阿弥陀さまの智慧のおはたらきである。とおっしゃってくださっているのであります。
 阿弥陀さまは何時でも何処でも、この私を喚び続けておってくださるのであります。そのおはたらきこそが“なんまんだぶ”という私の声になって、私の耳に届くお念仏さまなのであります。                  合 掌

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│ せ けん げ │
│ 世間解 第二九四号 │  念仏もうさるべし
│ 平成二十四年 八 月 │    ー信心の人は…ー
│ 発行 西法寺│
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 八月、関西ではお盆の月です。皆さま方には阿弥陀さまのご本願に支えられて先立たれた方々を偲びながらお念仏ご相続のことと思います。
 さて、法語カレンダー、八月のお言葉は、
  信心の人は その心 つねに浄土に居す
という親鸞聖人の『御消息』(お手紙)の中にあるご法語であります。
 簡単なお言葉のようですが、大切な、そして少しご注意をいただかねばならないご法語でありますので、「信心」ということ、そして「浄土に居す」ということの意味をあらためてお聞かせいただきたいと思います。まず“信心”です。おおよそ宗教と名の付くもので信心を語らない宗教は無いといってもよいでしょう。しかしその反面、信心という言葉はとても広い意味で使われています。そこに大きな広がりを持ち、私自身をみちびいてゆくという大変深い意味を持つ言葉として使われることもあれば、〈鰯の頭も信心から〉などのように「なんか知らんけど信じとったらええねん」というような大変お手軽な使われ方もいたします。浄土真宗の、親鸞聖人がお説き残しくださった“信心”の特徴は、私が、何かをつかんだり、何かを解ったり、何か電気に打たれるような…というような私の経験や感情を云々するものではありません。“信心”というから、‘私が何かを信じねばならない’とお考えくださるかもしれませんが、そうではないのであります。私の心と相談するのではありません。私の心は時と場合、ハッキリ言えば自分の都合によってコロコロ、コロコロと移り変わるものです。もっといえば一番当てにならないといってもいいでしょう。自分の都合で右にも左にも揺れ動くからです。宗教的な、あるいは仏教の作法や考え方について、「つまり自分の気持ちですよね」とおっしゃっていただく事があります。
 ほんまはその「‘自分の気持ち’が一番危ないねんで…」ということです。
親鸞聖人は、【「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。】とお説きくださいます。凡夫は息が切れるその時まで‘アレ欲しい’やら‘なんじゃい!’とか‘ふん、どうせそうでしょ!’いうていい回る。それが私だった。とお教えくださるのであります。自分の心をごまかしません。そして、そこで「凡夫やからしゃあないねん」ではなくて「こんな私に阿弥陀さまのご本願が届いて、私をさとりの身にしてくださるとおはたらきくださってるねんな」と凡夫であることを言い訳にしないで、凡夫であることの申し訳なさと忝さを感じながら日暮らしをさせていただく…。少し小理屈が過ぎました。早い話が、“自分勝手にしかものを考えられない私を阿弥陀さまはしっかり支え育て続けてくださっているんだな”と落ち着かせていただく事を“信心”というのであります。“信心”は私が作りあげるものではありません。“阿弥陀さまのいうことをきく”“阿弥陀さまのおっしゃったとおりにいただく”事であります。
阿弥陀さまは「お前な、必ず私の浄土に生まれて帰ってくんねんで」とおっしゃってくださるのでありますから、“今は申し訳ないけれども自分勝手な思いから離れることは出来ないけれどもやがて必ず阿弥陀さまと同じお覚りの身となってあらゆる“いのち”を支えてゆくはたらきをさせていたくんやな”と自身を振り返り自身の“いのち”の意味をそのように知らせていただく、それを浄土真宗では“信心”というのであります。
 やがて実現するお浄土の覚りを今の私の上に実感させていただく事、それが「その心つねに浄土に居す」ということであります。決して‘今、私が覚った’ということではありません。‘お浄土の覚りに心を寄せる身にならせていただいた’ということであります。きれいなお月さんを見ている人の眼にはお月さんが映り、その人の全体が柔らかいお月さんの光に包まれているようなものです。
私の心ををそんなふうにお育てくださるのが阿弥陀さまのご本願であり、阿弥陀さまと一緒のおはたらきをしてくださっている、ご往生くださった方々なのであります。“お盆”のご縁、あらためて先立たれた方のご恩を偲び、今のお育てに感謝させていただくのであります。              合 掌

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│ せ けん げ │
│ 世間解 第二九五号 │  念仏もうさるべし
│ 平成二十四年 九 月 │    ー如来の願船 いまさずはー
│ 発行 西法寺│
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 …気がつくと、知らんまに蝉の声が聞こえなくなって、虫が鳴き出して…、九月であります。今年のお盆参りも皆さまのご協力のおかげで何とか無事に済まさせていただきました。ありがとうございました。皆さまにはご本願のおはたらきの中、お念仏ご相続のことと存じます。さて、九月の法語カレンダーは、
  如来の願船 いまさずは 苦海をいかでか わたるべき
という、親鸞聖人のご和讃のお言葉であります。ご和讃そのものは、
  小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ
  如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき
というお言葉であります。ありがたく、また反面とても厳しいご法語であります。
カレンダーのご法語だけであれば、〈阿弥陀さまのご本願の、大きな船のようなおはたらきがなければ、この煩悩の苦難に充ち満ちた生涯をどのようにして彼のお覚りの岸に行き着くことが出来るであろうか〉というお心であり、もっと積極的には〈阿弥陀さまのご本願のおはたらき以外にこの私が生死の苦海をこえて行く道はありませんよ〉というお心でありましょう。阿弥陀さまのおはたらき、“お前さん、必ず私の覚りの世界に生まれて帰っておいでよ”というご本願のおはたらきに遇わせていただくまで私たちはこの世の中を迷いの世界であるとは思いはしないのであります。「お浄土てどんなとこやろな…」「お念仏てなんやろな…」「お念仏した方がエエンかな…」いろんなご縁やお育てで私たちはそんな事を考えるようになります。そして、やがて気がつけば「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏を申す身になっている。私がお念仏申す身にならせていただいたのは〈あんなことがあったから〉〈こんなご縁があったから〉〈こういうお育てがあったから〉…と振り返っていただく事がお出来になるお方もおられましょうし、〈なんや知らんうちに…〉というお方もおられましょう。しかし、確実にいえることは私が今「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏を申す身になっているというそこには〈間違いのない、決して途切れることのない阿弥陀さまのおはたらきがあり続けてくださっていた〉ということであります。その阿弥陀さまのおはたらきが私の“いのち”をお浄土へと生まれさせてくださるおはたらきなのであります。
〈小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ〉大変厳しいお言葉であります。親鸞聖人がご自身を顧みておっしゃるお言葉でありますが、私どもはその親鸞聖人のお相から同じ事を学ばせてもらわねばならないということでありましょう。親鸞聖人は〈この私の上には本当に心から他の人々をお救いもうしあげるような思いも力もありません〉とおっしゃってくださるのであります。
 私自身、僧侶として心しなければならないお言葉であります。なんか勉強でもするとつい“ちょっと言うたろか”などと思ってしまうのであります。
 これは、などんなことがあっても何にも言わないというのではありません。
ここでは〈如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき〉とおっしゃってくださいますように“いのち”の本当のよりどころについてと言うことでありましょう。親鸞聖人は何処までも何処までもご自身の愚かさを顧み続けながらその上に阿弥陀さまのご本願のおはたらきを確認し続けてくださったお方だったのでありましょう。
桐溪順忍という和上様は「ご開山(親鸞聖人)の人間観、自分以外の人をどう見るかということについては二通りあるんでないかいのぉ。」とおっしゃっていました。一つは“私と同じように阿弥陀さまに救われて行かねばならないお方”もう一つは“お浄土から来て私に阿弥陀さまのお救いを慶ぶご縁を作ってくださるお方”であります。“如来の願船に救われねばならないもの”と“如来の願船のありがたさを教えてくださる方”と申しあげてもよいでしょう。
大切なのはどちらにしても“私自身は阿弥陀さまに支え救っていただかねばならないものである”ということであります。それが、〈小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ〉であります。その私に間違いなく阿弥陀さまのご本願がかかってくださり今私を願い続け支え続けてくださっておるのであります。
だから私の口からお念仏さまが出てくださるのです。
〈如来の願船いまさずは〉であります。               合 掌
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│ せ けん げ │
│ 世間解 第二九六号 │  念仏もうさるべし
│ 平成二十四年 十 月 │    ー信心よろこぶ その人をー
│ 発行 西法寺│
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 有縁皆さまには阿弥陀さまのご本願のおはたらきの中「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏ご相続のことと存じます。
 本年の報恩講さまは平成二十年以来、四年ぶりに梯實圓和上がご出講くださいます。行信教校という僧侶に親鸞聖人のご法義をお教えくださる私塾のような学校におきまして父も、私も大変お世話になりお育てをいただいた和上様であります。親鸞聖人がお説き残しくださった阿弥陀さまのご法義をお同行皆さま方とともにご聴聞し、ご一緒に味わわせていただくのが僧侶や住職の役目でありますが、梯實圓和上には親鸞聖人のご法義を味わわせていただく時の、その肝の座りをお教えいただきました。
 さて、西法寺に新しい僧侶が誕生いたしました。長男・徳行が、皆さまのおかげをもちまして、九月十五日に本願寺ご本堂において即如ご門主様よりお剃刀をいただき、釋 徳行(しゃく とくぎょう)というご法名を賜り、正式な本願寺の僧侶とならせていただきました。阿弥陀さまのご法義とお同行に育んでいただいた賜物であります。明年より本格的に行信教校においてご法義のお育てを受ける予定であります。うれしくもありがたいことであり、父も慶んでくれておることであろうと思います。お同行さまのお育てが何よりの励みになり、力となります。これから色々とご心配やご厄介をおかけすることであろうと思いますが何卒よろしくお願いを申しあげます。
前置きが長くなり失礼いたしました。今月の法語カレンダーは、
  信心よろこぶ そのひとを 如来とひとしと ときたもう
というご法語であります。親鸞聖人のご和讃のお言葉であります。各々の単語は難しいお言葉ではありませんが、浄土真宗のご法義の要をお示しくださる大切なお言葉であります。ご注意をいただくのは“信心”そして“ひとし”というお言葉であります。親鸞聖人が“信心”とおっしゃる時は〈阿弥陀さまのご本願のおはたらきをそのままいただく事〉〈阿弥陀さまの言うことを聞くこと〉ということであります。いつもお聞かせをいただくことでありますが、
〔お前さん、必ず支えてるで、娑婆の“いのち”が終わったら必ず私の浄土へ生まれさせて私と同じさとりの身にしてみせるから、安心してお念仏しながら生きて行ってくれよ。〕
という阿弥陀さまのご本願のお言葉をそのまま、その通りにいただく事を“信心”というのであります。そのまま聞くというのはその通りにならせていただく事であります。何かを解ったり一生懸命信じたりしてその引き替えに何か御利益があって…ほんで、よろこぶ…というのが多くの場合の考え方ですが、親鸞聖人は“信心を慶ぶ”とおっしゃるのであります。
〔何があっても阿弥陀さん支えてくださってんねんな。娑婆の“いのち”が終わったらお浄土へ生まれさせていただいて阿弥陀さんと同じお覚りを開かせていただくんやな。なんまんだぶ、なんまんだぶ…〕
こんなふうに思いとらせていただく事を“信心”というのであります。
“どないしたらそんなふうに思えますやろ”というのが無駄な抵抗なのであります。【思たらエエ】のであります。その通りに思いとらせていただけば、阿弥陀さまのご本願の通りに“お浄土へ往き”“阿弥陀さまと同じさとりの如来さまに生まれさせていただく”身となるのであります。“阿弥陀さまの言うこと聞く”んですから“阿弥陀さまのおっしゃったとおりになる”のは当たり前なのであります。信心を難しくお考えにならないことです。そして阿弥陀さまと同じ覚りを開く身とならせていただく事を「如来とひとし」とおっしゃるのであります。これは「等し」という字であります。決して「同じ」ではないのであります。この世で覚りを開くと言うことではありません。娑婆に“いのち”あるうちは泣いたり、笑たり、苦しんだりして生きねばならんのであります。しかし、〈この私の全ての生き様を阿弥陀さまのご本願のおはたらきが支え続けてくださっている。息が切れたら必ず阿弥陀さまと同じ覚りのみとさせていただくんやな…〉このようにいただく事を“信心”といい、その信心の身を“如来と等し”“阿弥陀さまのお徳を身にいただいている”とお慶びくださったのであります。お念仏の中にそういうお心を味わわせていただくのであります。          合 掌
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│ せ けん げ │
│ 世間解 第二九七号 │  念仏もうさるべし
│ 平成二十四年 十一 月│    ーおおきなるともしびなりー
│ 発行 西法寺│
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 なんやかや、あれやこれやと過ごしている間に十一月であります。様々なご縁の全てに阿弥陀さまのご本願のおはたらきが届いてくださり、「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏ご相続させていただけるのであります。
その事をハッキリとご確認くださり、お説き残しくださった親鸞聖人のご恩徳をあらためて思うことであります。
さて、今月の法語カレンダーは、
 弥陀の誓願は 無明長夜の おおきなるともしびなり
という『尊号真像銘文』という親鸞聖人のご本の一節であります。
〈阿弥陀さまのおはたらきは、生死の闇に迷う、いや、迷っていると感じもしない私に、その迷いをこえて行く道のあることを知らせ、歩むことが出来るようにしてくださる大きな明かりである。〉
とおっしゃるのであります。〈弥陀の誓願〉とは阿弥陀さまのご本願のことでありますが、この“願い”には“誓い”が付いてくださっているのであります。「若不生者 不取正覚」というお言葉であります。早い話が、阿弥陀さまは「お前さん(この私)を救いきることが出来ないならば私(阿弥陀さまご自身)は阿弥陀仏という仏には成らないよ」とお誓いをくださっているのであります。「へーっ」てなもんですが、よくお考えください。私はまだこの娑婆でうろうろしておりますが、現に今「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と阿弥陀さまを拝ませていただいている。つまり阿弥陀さまは阿弥陀さまとしておってくださっているのであります。それはつまり、阿弥陀さまの願いが願いの通りに出来あがってくださっている証拠であります。阿弥陀さまの誓いと願いがその通りに出来あがってくださっているから、だから私は「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏する、あるいは、お念仏が聞こえててくださるご縁に居ることが出来ておるのであります。“お念仏”が阿弥陀さまの“誓願”が出来あがってくださった証拠なのであります。そのお念仏が、阿弥陀さまのおはたらきが、私の〈無明長夜〉、これは“いのち”の本当の意味と方向を知らずに、自分勝手な思いに翻弄されていると言うことでありましょう。私は阿弥陀さまのおはたらきに遇わせていただくまではそうだったのであります。それが、阿弥陀さまのご本願のおはたらきによって“お念仏に遇い得た”“なんまんだぶ、なんまんだぶ…とお念仏する身になった。”それは〈おおきなるともしび〉に遇わせていただいた事であるとおっしゃるのであります。
 灯台というものがあります。昼でも夜でもじっと立ってくださっていますが、灯台の本当の力は夜に発揮されます。灯台は自ら光り、闇夜を航行する船に今その船が居る場所と進む方向を教えてくれるのであります。昼間は昼間で同じように位置と方向を確認させてくれますが、本当に灯台が必要で、その力を発揮するのは闇夜です。“なもあみだぶつ”がそうなんですよ、ということであります。“なもあみだぶつ”は自分の考えを中心に物事を判断し、ともすればそれをもとに敵と味方を作り出してしまい、梯和上のお言葉をお借りすれば、〔自ら作りあげた愛と憎しみの中に翻弄されながら生きて行かねばならない〕私の今の愚かさに気づかせ。私が進まねばならない方向と、私の“いのち”恵まれた本当の意味を知らせてくださるおはたらきが“なもあみだぶつ”なのであります。
 阿弥陀さまの誓願のおはたらきに遇っても、欲も発すし腹も立ててしまうけれども、それを「ワシが腹たつこと腹立つ言うて何が悪いねん!」と今までは当たり前のように思っていたけれども、それが少しづつではあるかもしれないけれどもそのように思わずに、「腹立ちや貪りは止まらんけど…、申し訳ないことやなぁ…」と心に思わせていただくようになる。
“お念仏”は“なもあみだぶつ”は私の日暮らしを休むことなく照らし、支え、私がこの娑婆に“いのち”恵まれてある本当の意味と、その“いのち”が目指さねばならない方向を教え示し支えてくださる〈おおきなるともしび〉なのであります。私の口から私の声で出ているけれどもその“なもあみだぶつ”はいろんな事にあっては立ち止まり方向を見失いがちな私の全てを支える阿弥陀さまのおはたらきの全体です。お徳の顕れです。
お念仏は〈おおきなるともしび〉なのです。              合 掌
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│ せ けん げ │
│ 世間解 第二九八号 │  念仏もうさるべし
│ 平成二十四年 十 二 月│    ー大悲大願はたのもしくー
│ 発行 西法寺│
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 年の瀬、十二月であります。本年も何かとお世話になりまして誠にありがとうございました。さまざまなご縁の中で、阿弥陀さまのご本願のおはたらきがあってくださって「なもあみだぶつ」のお念仏ご相続であります。
今年の『世間解』は〈法語カレンダー〉のお言葉をたよりにお聞かせをいただいてまいりました。最後の月は、
  いよいよ 大悲大願はたのもしく 往生は 決定と存じ候え
このご法語は親鸞聖人が直接お書きになったものではありませんが、『歎異抄』というお書物の一節であります。
お弟子の唯円房という方がお師匠さまの親鸞聖人に「私は“なんまんだぶ、なんまんだぶ…”とお念仏を申してはおりますが、いっこうに‘うれしい’とも‘有り難い’とも思いません。それどころか‘お浄土へまいりたい’という気持ちさえもおこってきません。どうしたらよいでしょうか?」とお尋ねになります。〈ご法義に遇いながら自分はなんと…。〉という心からのお尋ねであります。その時、親鸞聖人は「私もそうだったよ」とおっしゃって「お念仏を申しても有り難くもうれしくもならない、そして‘お浄土へうまれさせていただくんだ’という気持ちもおこらない。何事をも自分の思い通りにしようとする〈煩悩〉というものはとても強くて、そういう〈煩悩〉をかかえている私やあなたを目当てとして阿弥陀さまはご本願を発してくださったんだ。本当ならどれだけ慶んでもたりないものに遇わせていただきながら、自分の心に振り回されて、嬉しくも尊くも思えないそういう煩悩の上にこそ阿弥陀さまのご本願がかかってくださっているんだよ」とおっしゃって、その後に続くのがこの〈いよいよ 大悲大願はたのもしく 往生は 決定と存じ候え〉というご法語であります。
桐溪順忍という和上さまがおられました。「お同行さまたちね、ちょっと考えていただきたい。お照らしがきついほど埃が見える…。どうだろうか、これはわかりますわね。部屋の電気や蛍光灯の明かりくらいでは何にも無いようなけれども、お日様の明かりが窓からすーっと入ってきておるところはチラチラチラチラと埃が見えますはね。つまりね、私の悪さがわかるというのは強いお照らし、お育てに遇わんとわからんのでないんでないかいの…」
とおっしゃっていました。何かの拍子に、自分の至らなさ、愚かさに気づかされた時、そこには間違いなしに私を支え願い続けてくださっている阿弥陀さまのご本願のおはたらきがあってくださっているということであります。
 これは、私自身に言い聞かせることでありますが、自分が正しい、自分は間違いないと思っている時には自分の不十分さは決してわかりません。
桐溪和上は「自分が正しい、自分が良い事をしておると思うておる時は良心は昼寝しとるんでないかいの…。」ともおっしゃっていました。
 さて、問題はここからです。阿弥陀さまのお育てによって自身の“愚かさ”に気づく身とお育てをいただいた。“愚かさ”に気がついて「私ゃ〜愚かじゃ〜」いうて開き直ったり「凡夫やねんから愚かでしゃ〜ないねん」と自分の愚かさ加減を肯定したりするのではありません。それはお育てに遇うたのでも何でも無く、ただ自分勝手に自分を許しているだけです。
 これは山本仏骨和上です。「阿弥陀さまのお救いは私に届いて、私の口からはお念仏となり、心にあっては慶びとなり、また慚愧となる…。」とおっしゃっていました。ただ「お救いにあずかって有り難いこっちゃなぁ」だけではないのであります。「お育てに遇いながら、欲も発し、腹も立ててしまう。申し訳ないことだなぁ」という心を阿弥陀さまのおはたらきによって育てられて行きましょうということであります。自身の至らなさ、愚かさに気づかされる時、それを通してそこに阿弥陀さまのお育てを味わわせていただく…。
 やっぱり、お念仏です。「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」と、いろいろな出来事の、いろいろな思いの中で「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏させていただくことです。そこに“こないしてお念仏させてくださってるのが阿弥陀さまの私を決してお捨てにならないおはたらきやねんな”と思いを慶びをあらたにさせていただく。
〈いよいよ 大悲大願はたのもしく 往生は 決定と存じ候え〉です。合 掌




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