世間解    平成23年


せ けん げ
世間解 第二七五号
   平成二十三年 一 月
       発行 西法寺
 


  念仏もうさるべし
       ーあたらしいとしにー

 
 一、勧修寺村の道徳、明応二年正月一日に御前へまゐりたるに、蓮如上人   仰せられ候ふ。道徳はいくつになるぞ、道徳念仏申さるべし。自力の念仏と  いふは、念仏おほく申して仏にまゐらせ、この申したる功徳にて仏のたすけ  たまはんずるやうにおもうてとなふるなり。他力といふは、弥陀をたのむ   一念のおこるとき、やがて御たすけにあづかるなり。そののち念仏申すは、  御たすけありたるありがたさありがたさと思ふこころをよろこびて、     南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と申すばかりなり。されば他力とは他のちからと  いふこころなり。この一念、臨終までとほりて往生するなりと仰せ候ふなり
新しい年になりました。本年もご聴聞させていただきます。何卒宜しくお願い申しあげます。ご本願のおはたらきの中ご一緒にお念仏ご相続させていただきましょう。はじめのご法語は、本願寺第八代、蓮如上人のお言葉を集めた『御一代聞書』というお書物の一節であります。何かといえば、年明けにはこのご法語をお聞かせいただいておるのであります。ありがたいお言葉であります。お正月にご挨拶に来られた道徳というお弟子に蓮如上人は「念仏申さるべし」とおっしゃるのであります。娑婆のことは楽しい事やしんどい事、苦しい事やうれしい事…。色んな事があったり色んな人がおられたりします。その事ごとに私たちは「あ〜でもない、こ〜でもない」と心色々に振り回されるのであります。
お釈迦様のお言葉に、
「第一の矢は受けるが第二の矢をうけることはない」
というご法語があります。
 お釈迦様はどうもあまりお丈夫な方ではなかったようです。お弟子の阿難尊者に「身体が痛い背中をさすってくれ…」などということをおっしゃっております。
 ある時、お釈迦様にお弟子がお聞きになります。
「釈尊のようなお方でもご病気になられることがあるのですか?」と、その時のお応えが先ほどのご法語です。「私も生きている限り、あらゆる縁の中で怪我もするし病気にもなる。しかし、私は第一の矢は受けるが第二の矢をうけることはない」とおっしゃるのであります。
〈第一の矢〉とは“いのち”恵まれてあれば縁の中で必ず受けてゆかねばならない怪我や老い、病、ひろげれば我々の周りに起こってくる色々な、いわば良くない出来事でありましょう。そしてその私の身体の上や心の上におこる出来事に振り回されることによって「あ〜でもない、こ〜でもない」「あれが悪い、こいつが面白ない」と自らが自らの心を縛り苦しめてゆくことを〈第二の矢〉とおっしゃるのでありましょう。お釈迦さまは、あらゆるものを平等にご覧になり、自分の考えを中心にしてそれによって良し悪しを決め、それを絶対視するという自らの煩悩から解放されておられるからそのようにおっしゃることがお出来になるのでありましょう。私にはその通りに出来ません。すぐに「なんじゃいあいつ」いうて思てしまいますし、それによっていよいよ腹立ちを増長して第二どころか、第三、第四の矢を受けていきます。いや、受けるのではなくて自分で作り出してしまうのでしょう。しかし、第二の矢を受けないことは出来なくても“第二の矢をうけることはない”というお言葉をいただくことは出来ます。そういう心の豊かさがあるんだといただくことは出来るはずなんです。心や身体の痛みはなくなりはしませんけれども、その痛みを支えてくださっているおはたらきがあることを聞かせていただくことは出来るのであります。
 山本仏骨和上はご往生になる数日前、「お身体お辛くありませんか」と
お見舞いに来られた方に「これは、人間の器をもろているからねぇ」とおっしゃったそうであります。本当に心豊かに開かれたお言葉であると思います。親鸞聖人がお味わいくださりお伝えくださった阿弥陀さまのご法義こそが山本和上をそうお育てくださったのでありまよう。その阿弥陀さまのご法義。同じおはたらきが私にも届いてくださっておるのであります。〈なもあみだぶつ〉はその現れであります。第二の矢を受け、第三、第四の矢を作ってしまう私を支え、本当はそうではないんだよと私の心を豊かなものに育ててくださるのがお念仏なのでしょう。お念仏を申し、そのお念仏の中に阿弥陀さまのお心を聞かせていただいてゆく。〈念仏申さるべし〉であります。             合 掌

せ けん げ
世間解 第二七六号
   平成二十三年 二 月
       発行 西法寺
 
                 
                 
  念仏もうさるべし
       ー梯和上のご法話ー
                 
                 
 どない思うてお念仏するのかということを心配するんじゃなくて、「なんまんだぶ」と称えなさいということです。「なんまんだぶ」と称えたら「なんまんだぶ」と聞こえてくるでしょうが、“その声につきて決定往生の思いをなすべし”と法然聖人はおっしゃるんです。
 有り難いか、有り難くないか、そんな事を詮索する必要はない。“ただ念仏しなさい”心が澄みきってるか、濁ってるか、そんな事も問題にしなさんな。ただ「なんまんだぶつ」と称えなさい。称えたら聞こえてくる「なんまんだぶ」という声があるだろう。その声を聞いたら“必ず救るぞ”と如来さまがおっしゃってくださってるんだから、これ仏さまの声だからね。
「なもあみだぶつ」は人間の言葉ではないですよ「なんまんだぶつ」は。仏さまの言葉です。お経にはね〈摂取して捨てざれば、阿弥陀と名づけたてまつる〉とおっしゃってる。
 十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる
と親鸞聖人がご和讃の中でおっしゃてるでしょう、あれですよ。
「なんまんだぶつ」てなんて声ですか?というたらそれは“摂取して捨てない”“お前を決して見捨てないぞ”と阿弥陀さんがおっしゃってる。
“大丈夫、お浄土へ連れてゆくぞ”とおっしゃっている。その仏さまのお声が〈なんまんだぶ、なんまんだぶ〉と聞こえてくるんだ。
ただお念仏しなさい。どんな心で称えているかとか、どんな思いで称えているかとかそういうことを問題にしないで、「なんまんだぶ、なんまんだぶ」とお念仏を称える。そして、聞こえてくるお念仏、聞こえてくる声、〈なんまんだぶつ〉と聞こえてくださる声について“決定往生の思いをなせ”。
“大丈夫だぞ”とおっしゃってくださるんだから‘おお、大丈夫だ、大丈夫だ
’と聞いて慶ぶんだ。それを“信心”というんだ。
ですからね、信心と念仏、念仏と信心というのは一つなんですよ。
親鸞聖人はね、「お念仏は称えものだと思うな。お念仏は聞きもんだと思え。一声一声、聞こえてくださっている仏さまの声なんだ」とおっしゃるんです。
ここをハッキリと味おうとってほしいと思うんです。
お念仏を自分の称える仕事やと思てるからね、仏さまに会えないんだ。
念仏称えながら誰に会うてるかいうたら、自分に会うてる。自分の声にあい、自分が功徳積んでると思ってるでしょ。 一声称えるより十声称えた方が、十声称えるより百声称えた方が、それより一万遍称えた方が大分功徳があると思ってるでしょ。それは自分のやったことや。自分の功徳を見てるから仏さまに会えないんだ。仏さまをちっとも見てない。お念仏は如来さまの功徳です。
 功徳というのは勝れたはたらきということ、如来さまの勝れたはたらきが、〈なんまんだぶつ〉という言葉になって私に聞こえてる。これが仏さまの勝れたはたらきなんだ。だからね、念仏の功徳というのは私のはたらきじゃない。如来さまのはたらきなんだ。‘あっ、この〈なんまんだぶつ〉は如来さまのはたらきなんだな’と気ぃついた人は、そこで仏さまに出会ってるわけや。
如来さまに出会うちゅうのは、なんですよ、‘お念仏が仏さまの声だ’‘お経が仏さまのみ言葉だ’と聞いた人は何時でも仏さまに会うてる。
仏さまに死んでから会うんと違う。生きてる間に会わなきゃ、救われはしませんわい。生きてる間に会えない人間が、死んでから会えるかぁ?
生きてる間にしっかりと会うんだ。会うちゅったって、向こうから会いに来てはるんだ。向こうから喚びかけ、向こうから会いに来てなさる。それが「なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…」と聞こえる。
だから、どんな思いで称えてるか、どんな心で称えてるかそんな事考えんでよろしい。それよりも「なんまんだぶつ」と称えれば〈声につきて決定往生の思いをなすベし〉親鸞聖人はね、念仏は〈本願招喚の勅命〉だとおっしゃる。招はまねく。喚はよび覚ます。念仏は如来さまが私を招き喚び覚ましてくださるお言葉だ「なんまんだぶつ」でどういうことですか?と聞いたら「必ず救るぞ」というてくださっている阿弥陀さまのお言葉だと聞かせていただくんです。合 掌

せ けん げ
世間解 第二七七号
   平成二十三年 三 月
       発行 西法寺
 
                  
                  
  念仏もうさるべし
       ーなもあみだぶつー  
                  
                  
 弥生・三月であります。日に日に日差しが春めいてまいりますが、みなさま方にはご本願のおはたらきの中、お念仏ご相続のことと思います。親鸞聖人がお味わいくださりお説き残しくださった阿弥陀さまのご本願のお念仏。浄土真宗のご法義は何か特殊な修行をした人や、才能のある人、努力の出来る人、特別な人…というような限られた人にだけ届くものではありません。
山本仏骨和上は、法然聖人のお書物の、
  問ていはく、聖人の申す念仏と、在家のものの申す念仏と、勝劣いかむ。
  答ていはく、聖人の念仏と、世間者の念仏と、功徳ひとしくして、またくか        はりめあるべからず。
  問ていはく、一声の念仏と十声の念仏と、功徳の勝劣いかむ。
  答ていはく、ただおなじ事也。
  問ていはく、最後の念仏と平生の念仏と、いづれかすぐれたるや。
  答ていはく、ただおなじ事也。
  問ていはく、智者の念仏と愚者の念仏と、いづれも差別なしや。
  答ていはく、ほとけの本願にとづかば、すこしの差別もなし。
というお言葉を引かれて、「私はこれが、ほんとーに有り難いんだ」とおっしゃっておられました。
先月の『世間解』の梯和上のご法話と合わせてお味わいをいただければと思いますが、ざっとお聞かせをいただくとこういう事です。
法然聖人にお弟子が、
〈尊い人と普通の人が称えるお念仏に功徳の違いはありますか?お念仏は称える数によって功徳が違いますか?日常何気なしに称えているお念仏と臨終間際に称えるお念仏はどちらが勝れていますか?賢い人と愚かなものの称えるお念仏に功徳の違いはありますか?〉などとお尋ねになるんです。
それに対する法然聖人のお答は徹底されています。
“阿弥陀さまのご本願のお念仏〈なもあみだぶつ〉はどんな場合でも全く同じ功徳だよ”と言い切ってくださるのであります。
〈普通の〉と申しますか、〈常識的には〉と申しますか、とにかくさらっと考えたら、‘凡人と聖者なら、聖者’‘一声と十声なら、十声’‘ぼんやりしてる時ともうこれでお終いと気合いの入っている時なら、気合いの入っている時’
‘賢い人と愚か者なら、賢い人’がそれぞれ値うちがあったり意味があったり考えます。それが世間の普通の思いであり、私たちの普通の価値観と言えるでしょう。〈なもあみだぶつ〉の、阿弥陀さまのご本願のお念仏はそういう世間の思いを超え包むものです。 私の価値観は、私の経験や考え方、そこからの判断によって導き出されるものです。そして、それは私や私に近しい人の幸せのためには変わることがあっても、滅多に大嫌いな人の幸せのために変わることはありません。
 早い話が娑婆の価値観は私の都合に合わせた価値観でしかないのです。
私たちは「私の価値観が正しい!」といって腹を立てたり、ケンカをしたりして、お互いに傷つくのであります。その悲しさを見捨てておけない阿弥陀さまがご本願を発して全ての“いのち”を“本当の安らかな境地”を開かせて見せると〈なもあみだぶつ〉にお成りくださり、私に〈なもあみだぶつ〉と届いて、私の生きる力となってくださっておるのであります。
〈なもあみだぶつ〉は私の価値観、経験、判断を全て超え包んで、何時でも何処でも私を願い続け支え続けてくださっておる阿弥陀さまのおはたらき、阿弥陀さまのお徳の全てであります。私の思いや、環境、能力、善悪…そんな事に左右されるものではないのであります。『歎異抄』というお聖教には、
  弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず。
とおっしゃいます。これは〈あのおじいちゃん、この可愛い子、あの素晴らしい人、この憎たらしい人〉ということではありません。〈若い時の私も、年老いた時の私も、善い心の時の私も、平生の自分中心の思いにいる私も…〉ということです。阿弥陀さまのご本願のお念仏は私の“いのち”全体を貫き通して“どうぞ気づいてくれよ”と私を願い支え続けてくださっておるのであります。合掌

せ けん げ
世間解 第二七八号
   平成二十三年 四 月
       発行 西法寺
 
                  
                  
  念仏もうさるべし
       ー和 願 愛 語ー  
                  
                  
 四月がやってきました。私たちが“いのち”恵まれているこの世界、仏教では娑婆と申しますが、この娑婆は何時何処で何が起こってくるところかわからないところなのであります。
法然聖人はご法語で、
  いのるによりてやまひもやみ、いのちものぶる事あらば、たれかは一人とし  てやみしぬる人あらん。
神さんや、仏さんに祈ることによって病気にならなかったり、死ななかったりするのならば、この世に泣く人は一人もいないはずじゃないか。
とハッキリとお教えくださいました。昨年ご往生になった浅井成海先生はよく、
「網の目のような条件と、数え切れないほどの因と縁が重なり合ってぇ、今の私がありますぅ。網の目のような条件と、数え切れないほどの因と縁が重なり合ってぇ、色々な事柄にあってまいりますぅ。そこにぃ、間違いなく阿弥陀さまのご本願が届いてくださっている。ということになりますぅ」
とおっしゃってくださっておりました。
梯實圓和上は、「親鸞聖人のご法義に遇いえた所詮の一つはね、どんな苦しみや、悲しみ。どんな困難が私のところにやってきても。その苦しみや、悲しみ、困難に押しつぶされることのない心の強さやしなやかさと、その辛さの中からでも、苦しみや、悲しみ、困難の中に阿弥陀さまの“お前さん必ず支えてるぞ”というご本願のお心を味わって行くことの出来るような心の豊かさをお育て頂くということだよ」とおっしゃってくださいました。
「和顔愛語」こんな佛語が『仏説無量寿経』というお経さまの中にあります。
  不可思議の兆載永劫において、菩薩の無量の徳行を積植して、欲覚・    瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起さず。色・声・香・味・触・   法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず。少欲知足にして染・恚・痴なし。  三昧常寂にして智慧無礙なり。虚偽諂曲の心あることなし。和顔愛語にして、  意を先にして承問す。勇猛精進にして志願倦むことなし。もつぱら     清白の法を求めて、もつて群生を恵利す。三宝を恭敬し、師長に奉事す。  大荘厳をもつて衆行を具足し、もろもろの衆生をして功徳を成就せしむ。
というお言葉です。現代語訳では、
  はかり知ることのできない長い年月をかけて、限りない修行に励み菩薩の功徳を   積んだのである。貪りの心や怒りの心や害を与えようとする心を起こさず、ま  た、そういう想いを持ってさえいなかった。すべてのものに執着せず、どのようなこ  とにも耐え忍ぶ力をそなえて、数多くの苦をものともせず、欲は少なく足ること  を知って、貪り・怒り・愚かさを離れていた。そしていつも三昧に心を落ちつけて、  何ものにもさまたげられない智慧を持ち、偽りの心やこびへつらう心はまったく  なかったのである。表情はやわらかく、言葉はやさしく、相手の心を汲み取って  よく受け入れ、雄々しく努め励んで少しもおこたることがなかった。ひたすら清ら  かな善いことを求めて、すべての人々に利益を与え、仏・法・僧の三宝を敬い、師や  年長のものに仕えたのである。その功徳と智慧のもとにさまざまな修行をして、  すべての人々に功徳を与えたのである。
となります。もちろん私がそのように努力してもかまいはしませんが、本当は、私に替わってそのように努力しそうなってくださった阿弥陀さまが、何時でも何処でも私を、全てを支えてくださっているんだよ、というのが親鸞聖人のお味わいであります。それが、「なもあみだぶつ」です。「なもあみだぶつ」の中にはそんな阿弥陀さまのお心がこもっているのです。その上に立って私の“いのち”は“行い”はあると考えています。人間の力や、言葉が届かない事柄がやってくることがあります。一人一人が“今”出来る事を少しずつでもやり続けることだと思います。困難な時、宗教を困難から逃れる道具にしたり、禍が起こらないようにする道具のように考えないことです。それは大きな間違いです。宗教は困難な状況をなくしたり、禍がやって来なくなったり、幸せをよびこむために使う、私の欲望を満たす道具ではありません。私の困難や、苦しみや、さまざまな思いや行動のの全てを支えてくれる、それが「なもあみだぶつ」です。
「和顔愛語」と「なもあみだぶつ」の中の私の行動です。       合 掌

せ けん げ
世間解 第二七九号
   平成二十三年 五 月
       発行 西法寺
 
                  
                  
  念仏もうさるべし
       ーなもあみだぶつー  
                  
                  
 五月であります。皆様にはそれぞれのご縁の中ご本願のおはたらきのお念仏ご相続の事であります。
 私の口から出てくださる「なもあみだぶつ」というお念仏は、阿弥陀さまがその願いの徳の全てを込めて仕上げ、私に届いてくださっている阿弥陀さまのおはたらき、お徳の全てのあらわれなのであります。
それを横に置いて、“お念仏したらどないなんねやろ”“お念仏てなんやろ”
“何でお念仏せんとアカンねやろ”などと百年考えていても何もナランのであります。行信教校の天岸浄圓先生は、
〈ご法義聞いてね…、ご法義聞くことをご教化にあうというでしょ。教化というのは教えによって変化させられていくことです。だから‘ご法義聞いても何にも変わりません’ということがあったとすればそれはご法義を聞いているのではないんです。ただ知識が増えただけです。…〉
とお教えくださいました。
 ご法義を聞かせていただくということは、聞いて覚えるのではありません。聞いて「へー」いうて感心するのでもありません。まして、聞いて人と比べたり人を量ったりするのではありません。
“なもあみだぶつ”というお念仏の、私の口から出てくださるお念仏の、そしてそこに込められている阿弥陀さまの、もっといえば阿弥陀さまと一緒のおはたらきをしてくださっているご往生になられた方々の私にかけられている願いを、思いを聞かせていただくのであります。
 何かが分かったり、何かを体験したり、何かを感じたり、何かを見たり…という私の経験や私の心の動き、はたらきと相談したり頼りにするのではありません。阿弥陀さまは全部お見通しで、全部お分かりくださったうえで
“お前さん必ず支えてるからな、安心してお念仏称えながら生きてきてくれよ”と願いその願いのままににおはたらきくださっておるのであります。
 “願い”が起こるのは何故でしょう。何故、阿弥陀さまは私を願ってくださるのか。何故、阿弥陀さまが願いを発してくださらねばならなかったのか。
 例えば、お昼ご飯をお召しあがりになった直後には“あ〜、はよお昼ご飯食べたいなぁ”という思いはおこりません。何やら忙しくしててお昼の一時も二時もなってるのにまだ片付かんでバタバタしてると“あ〜、はよお昼ご飯食べたいなぁ”という“願い”がおこるのであります。
早い話が、〈そうなっていないから〉そこに“願い”がおこるのであります。
 阿弥陀さまは私の“いのち”の有り様をご覧くださって“このまま置いておいては大変なことになる”と願いを発してくださり私の“いのち”の本当の意味と目指さねばならない方向をお教えくださっておるのであります。
お前さんは‘ええの’‘悪いの’‘好きの’‘嫌いの’‘通るの’‘通らんの’…いうて自分の都合を中心にしてそこに自分の世界を作り出して、それだけが正しくて、それに合わさない者を全て切り捨ててやがて、自分にも他人にも辛い状況を作り出してしまう生き方から逃れられない。
 しかし、お前さんがこの娑婆に“いのち”めぐまれた本当の意味はそんな事にキュウキュウすることではなく全ての“いのち”を尊いこととして拝み支えていくはたらきをする身になるためだ、そうなってこそお前さんが有り難くも不思議にこの娑婆に“いのち”恵まれたことの意味が全うするんだ。
 娑婆に日暮らししている内は‘ええの’‘悪いの’‘好きの’‘嫌いの’‘通るの’‘通らんの’…という心の動きから逃れることは出来ない。しかし、ええの’‘悪いの’‘好きの’‘嫌いの’‘通るの’‘通らんの’…という私の思いが全て正しいことではないと知り、そこに慎みや嗜みを持つことは出来るだろう。
そういう日暮らしを私は支え、やがて必ずやってくるこの娑婆の臨終が、死んで終わってしまうことではなく、私の浄土に往き生まれることなんだよと、それが“往生”ということだよ。そういう“いのち”の中にお前さんはいるんだ、だからこそその“いのち”を大事に大事にしてくれよ。
と私の“いのち”の意味と方向を知らせ育ててくださる。その願いのはたらきが私の口を通して“なもあみだぶつ”と届いておってくださるのであります。合掌

せ けん げ
世間解 第二八〇号
   平成二十三年 六 月
       発行 西法寺
 
                  
                  
  念仏もうさるべし
   ー阿弥陀さまのまします日暮らしー  
                  
                  
『あのね〈往生極楽の道〉というのはね“死んでからお浄土へ往かせてもらうねんな”なんかいうことと違いますよ。〈往生極楽の道〉というのは“どう生きるか”という事を問題にする言葉です。今を、どう生きるか。どう生きることが浄土を目指すにふさわしい生き方なのか…。それを私に問いかけるのが往生極楽という仏語ですよ。』行信教校名誉校長・梯實圓和上のお言葉です。
 私たちの日暮らしの中の何か一部分にお浄土への道が、仏道が、ご法義があるのではないのです。日暮らしの、生活の全体が浄土を目指す仏道として、往生極楽の道として、私が何時何処で何をしていても阿弥陀さまのご照覧のもと阿弥陀さまと共に、阿弥陀さまのお浄土を目指して毎日を歩んで行く。それが仏教者として正しい生き方なんだよとお釈迦さまは、親鸞聖人はおっしゃってくださったんだと梯 和上はお教えくださるのであります。
『…なにかね、浄土往生といえば死んでから後のこと、死んだ先のことというように考えておるんでないですか。どうです皆さん。〈死んだらやがて浄土へ生まれさせていただきます〉いうて考えとるんでないかね。…そんなつまらん聴き方しとるからイカンのよ!そんなつまらん聴き方しとるからご法義が、お念仏が今、活きないんだ!そんな聴き方しとったらつまらんのよ!あのねぇ、死んでからあっちウロウロこっちフラフラしてお浄土へゆくんじゃないのよぉ。“今がお浄土への道中なんだ”今がお浄土への道中。よろしいか、“今がお浄土への道中、息が切れたらそこがお浄土”ご開山さまのご法義はそういうご法義なんだ。』梯 和上のお師匠様である山本仏骨和上はこうお教えくださいました。
 お浄土への道中である日暮らし、その日々をどう渡って行くか?
お念仏をご相続しながら、お念仏を称えながら日々を送らせていただくことです。
のべつ幕無しにお念仏だけ申しておれというのではありません。お念仏だけで日暮らしは出来ないのですから、ズーッとお念仏申せというのではありません。
ご縁を見つけてお念仏申すことです。お念仏申すということはお念仏を聞かせていただくことです。「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏を申せば自分の声が「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」と聞こえてくるのであります。
親鸞聖人のお師匠様である法然聖人は、【口に南無阿弥陀仏ととなえば、こゑについて決定往生のおもひをなすべし。】とお教えくださるのであります。
「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏を申して、自分の耳に「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」と聞こえてくださるそのお念仏の一声一声を“ああ、阿弥陀さまが今私を支えて、お浄土への日暮らしを護ってくださってるんやな”といただくんだよということであります。自分自身のお念仏が阿弥陀さまのお喚び声であるといただくのであります。お念仏を申して阿弥陀さまや、ご往生になられた方に聞いていただいて、その引き替えに救いのおはたらきが届くのではありません。阿弥陀さまや、ご往生くださった方々の“お前さん必ず支えてるで”という救いのはたらきが間違いなしに届いてくださっているからこそ私が今「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏申すことが出来ているのであります。
 私の今の一声一声のお念仏は“阿弥陀さまのお喚び声であった”とそう聞かせていただく私には常に〈阿弥陀さまのまします人生、阿弥陀さまと共なる人生。〉が恵まれるのであります。お念仏と共に、お念仏に人生を支えられながら浄土往生の日暮らしを送らせていただく。私の“いのち”はこの娑婆では苦しいことにも悲しいことにもあって行かねばならないけれども、阿弥陀さまやご往生くださった方々としっかりとそれを乗り越えやがてお浄土へ生まれれば今度は阿弥陀さまと同じ覚りの身となってあらゆる“いのち”を護って行く。我々の“いのち”の意味は阿弥陀さまに願われたそういう豊かさを持っているのであります。私は阿弥陀さまのことや、ご往生くださった方々のことをすっかり忘れて日暮らししていることがある。しかし、阿弥陀さまは、ご往生くださった方々は一瞬たりとも私を忘れてくださることはない。そのおはたらきが時々かもしれないけれども私の口に‘なんまんだぶ’というお念仏になって出てくださっているのであります。お念仏は私の人生が〈阿弥陀さまのまします人生、阿弥陀さまと共なる人生。〉であると知らせてくださっておる、阿弥陀さまからの喚び声なのであります。                     合 掌

せ けん げ
世間解 第二八一号
   平成二十三年 七 月
       発行 西法寺
 
                   
                   
  念仏もうさるべし 
        ー遠慶宿縁ー
                   
 
 本格的な夏が間近にせまってまいりました。みなさま方には阿弥陀さまのまします日暮らしの中、「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏ご相続の事と思います。
「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。」浄土真宗のご開山、親鸞聖人のお言葉であります。あまり聞き慣れないお言葉がならんでおりますが、〈たまたま〉とは思いもかけずにということであります。〈行信〉とは阿弥陀さまのご本願の救いのおはたらき、すなわち“なもあみだぶつ”というお念仏であります。〈宿縁〉とは広くいえば、今の私を支えてくださっている遠い過去からの数えきれないほどのご縁というほどの意味でありましょうか。思いもかけずに私は今、南無阿弥陀仏というお念仏を申す身にならせていただいている。私が今こうして「なんまんだぶ、なんまんだぶ」とお念仏申す身にならせていただいておるということは、私が思い量ることの出来ない程の尊いお育てがあってくださったに違いない。おかげで今私はこうして「なんまんだぶ、なんまんだぶ」とお念仏申す身にならせていただいている。と今、ご自身が阿弥陀さまのお念仏に遇われたことをお慶びになっているお言葉であります。なぜ、「なもあみだぶつ」というお念仏に遇えたことが慶びになるのでしょうか。
 そこには間違いなしに阿弥陀さまのご本願のおはたらきがあってくださっていたんだと、親鸞聖人は恩師・法然聖人を通してその事に心おひらきになられたからであります。私が、何時、何処で、どんな状況にあろうとも阿弥陀さまの“お前さん、必ず支えてるから、本当に疑いなく私の浄土、覚りの世界に生まれてかえってくることが出来ると思いとって、それまでの日暮らしをお念仏もうしながら生きていってくれよ”という阿弥陀さまのご本願のおはらたきが私に届きその通りに躍動してくださっている相、それが私の口から出、私の耳に、心に届いてくださっている“なもあみだぶつ”というお念仏さまなのであります。お念仏を申して生きる力にするのではなりません。
生きる力が私に届いて私の口からなもあみだぶつとなって出てくださっているといただくのであります。親鸞聖人はそれを遠く宿縁を慶べとお味わいくださったのであります。
 先日、NHKで法然聖人と親鸞聖人を取りあげた番組が放送されておりました。
その中で〔親鸞は信心往生。だから親鸞はお念仏もとなえる必要はないと言ったんですねぇ〕という発言がありました。冗談ではありません。親鸞聖人はお念仏に遇えたことをお慶びくださったお方なのです。繰り返しになりますが、お念仏申させていただくことですよ。〈どうしたらお念仏出来るようになるだろうか…〉〈いつになったらお念仏出来るようになるだろうか…〉なんか考えてる間に〈なんまんだぶ、なんまんだぶ…〉とお念仏申されることです。
そして、私の口から出て、私の耳に心に届いてくださる“なんまんだぶ”を〈ああ、阿弥陀さんやご往生くださった方々が今、私を支え、願い続けて、一緒に生きてくださってる証拠やな〉〈今私にお念仏させてくださっているおはたらきが私の“いのち”をお浄土へ生まれさせてくださる本願力なんやな〉と安心して味わわせていただくんです。
そういただくことを“信”というんです。親鸞聖人がおっしゃったくださった〈ご信心〉とは私が何かをしっかり掴んだり、覚えたり、分かったりすることではありません。“阿弥陀さまの言うこと聞くこと”です。
「お前さん、ほんまに疑いなく私の浄土に生まれてかえってくることが出来るんだと安心して、それまでの日暮らしはお念仏しながら生きていってくれよ」
というご本願のお言葉をそのままいただいて、〈私の“いのち”は必ずお浄土につながってるんやな〉と安心してそして〈なんまんだぶ、なんまんだぶ…〉とお念仏をご相続させていただく。これが“阿弥陀さまの言うことを聞いている相”“信心の相”なのであります。
 親鸞聖人がお味わいくださりお説き残しをくださった阿弥陀さまのご本願のおはたらき、浄土真宗のご法義は決して“信じさえすればいい”“ただ聞いておればいい”まして“信じさえすればお念仏もいらない”等という観念的なものではないのであります。〈なんまんだぶ〉とお念仏させていただくことです。合 掌

せ けん げ
世間解 第二八二号
   平成二十三年 八 月
       発行 西法寺
 
                  
                  
  念仏もうさるべし
        ー歓喜会のこころー    
                  
                  
 八月 関西ではお盆の月であります。みなさま方にはお念仏ご相続いただきながら“阿弥陀さまのまします日暮らし”をお過ごしのことと思います。
『…世の盲冥をてらすなり、てあるでしょ。ご和讃やんか。あの‘冥’ね。あれで僕、若い時に友達と議論になってね。友達が「あの‘冥’いうんは‘見えるような、見えんような’いうことや」言うねん。ほんで僕ね「そんな事あるかい、あれは阿弥陀さんのおはたらきを仰ってんねんから、そんな中途半端なことやのうて‘見えん’いうことやろ」いうていうたんよ。そしたら又友達が「いや、‘冥’は‘薄暗がり’いう意味やから、‘見えるような、見えんような’いうことや」言うねん。ほんで又僕が「いや、‘見えん’いうことやろ」いうてたんよ。ほんで、若いモンでなんぼ言うてても埒アカンから先生に聞いたんよ。梯和上に、「どっちでっしゃろ」いうたらね、和上「ん〜、どっちも半分ずつしか当たってへんな」いわはんねん。「どういう事ですの」言うて聞いたら。「‘冥’いうのは向こうからは丸見えで、こっちからは全然見えへんいうことや」いうて教えてくれはったわ。』利井明弘先生にお聞かせいただいたお話しです。
 阿弥陀さまや、阿弥陀さまと全く同じおはたらきをしてくださっているご往生くださった方々は“いつでも、どこでも”私と一緒におって私を願い続け支え続けてくださっておるのであります。
「ご院さん、お盆ていつからですの…」毎年七月になるとよくお聞きするご質問であります。“お盆がいつからか?”これは“先立たれた方が何時お帰りになるのか”という思いの形が変わったお尋ねであります。
お盆には亡くなった方がかえって来はるという、日本のお仏事の中で培われてきた思いであります。先立たれた方、ご先祖を大切に思う。先立たれた方を懐かしく偲ぶ。ありがたいことであります。
しかし、浄土真宗ではお盆のご縁をそのまま、そのようには味わいません。
先立たれた方と私は離れてはいないのであります。
もう少し言い方をかえれば、“お盆にはなくなった方が帰って来はるからちゃんとお弔いせんといかん。”と考えるのではありません。浄土真宗ではお盆のご縁を“歓喜会”とよばせていただきます。
 “私に、ご先祖や先立たれた方のことを偲び、大切にしようという心がおこるというのは、そのようにお育てくださったおはたらきがあったんやなぁ。
それが、阿弥陀さまとともにあってくださっている先立たれた方やご先祖のおはたらきなんやなぁ。”と安心させていただくのであります。
 親鸞聖人がお味わいくださりお説き残しをくださった阿弥陀さまのご本願のおはたらき、即ち浄土真宗のご法義は、そういうご法義なのであります。
〈なんや、いつでも一緒におってくれてたんかいな。〉というお味わいなのであります。平生、世事に紛れておろそかになりがちなお仏事に“お盆”のご縁を通してあらためて心を寄せる。その中で、お盆の時にかえって来はると聞いてたけども、ほんまはいつでも一緒におって私を支えてくださってたんか。私の方からは何にも見えへんけれども、あっちからは全部見護ってくださってたんやなぁ。
そやから年中、何処におってもお念仏できるんか。ありがたいことやなぁ。と慶びを新たにする。
浄土真宗のお盆は、ご先祖が、先立たれた方がお亡くなりになって、年にいっぺんかえって来はるという“行事の期間”ではありません。
先立たれた方を“ご往生くださった方”と仰ぎながら、良いことも悪いことも,楽しいことも悲しいことも、辛いことも可笑しいことも…、色んな目に会ったり、遭ったりしなければならない日暮らしだけれども、阿弥陀さまやご往生くださった方々が常に私を願い支えて私を念仏申す人間に。お念仏の心を聞くことが出来るご縁に遇わせてくださってたんやなぁと。
日本中がご先祖を思い、お墓参りをしようかな、という思いになる“お盆”のご縁をお借りして、ご往生くださった方々のご恩やお徳をあらためて偲びながら、〈年に一回帰って来はんねんから…〉ではなく〈いつも一緒におってくれはって、よかったなぁ〉と慶びを新たにさせていただく。それを“歓喜会”とよばせていただくのであります。                       合 掌

せ けん げ
世間解 第二八三号
   平成二十三年 九 月
       発行 西法寺
 
                    
                    
  念仏もうさるべし  
        ー大切に聞くー    
                    
 
  九月になりました。昨年に負けないぐらいの暑い夏であったように思います。
 八月十五日の西法寺“歓喜会”にはたくさんのお同行さまがお参りいただき
誠にありがとうございました。おかげさまで今年も無事に“歓喜会”をお勤めさ
せていただきました。ここで一つ訂正です。先月八月の『世間解』で“歓喜会(かんぎえ)”を全て“歓喜会(かんぎかい)”とふりがなをつけてしまってい
ました。正確には“歓喜会”です。訂正してお詫び申しあげます。
 さて、今年は、なかなか厳しい暑さが続いたところに三月の大変な地震で出来
るだけ節電を…ということで、ここニケ月ほどは、どなたかとお目にかかると
第一声は「暑いですねぇ〜」という言葉が決まり文句でありました。
“あつい”ということでこんなお話を思い出しました。『仏説無量寿経』という
お経さまに「この阿弥陀さまの教えは火の中をくぐり抜けても聞かせていただか
ねばならない教えだ」ということが説かれているのであります。
『…仏、弥勒に語りたまはく、「それかの仏の名号を聞くことを得て、
歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。
すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。このゆゑに弥勒、たとひ大火ありて
三千大千世界に充満すとも、かならずまさにこれを過ぎて、この経法を聞きて
歓喜信楽し、受持読誦して説のごとく修行すべし。…』
というお言葉でお経の最後のところ、お釈迦さまがお経の締めくくりにお釈迦さ
まの後継ぎである弥勒菩薩に,どうぞこのことだけは忘れずにしっかり聞いて
間違いなく伝えておくれよ’とお説きくださるのであります。現代語訳ではこう
なっています。
『…釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。「無量寿仏の名を聞いて喜びに満ちあふれ、
わずか一回でも念仏すれば、この人は大きな利益を得ると知るがよい。すなわち
この上ない功徳を身にそなえるのである。だから弥勒よ、たとえ世界中が火の海
になったとしてもひるまずに進み、この教えを聞いて信じ喜び、心にたもち続け
て口にとなえ、 教えのままに修行するがよい。…』
実はこのお言葉は同じ『仏説無量身軽』の中にもう一ケ所出てまいります。
そこには、
 『〈たとひ世界に満てらん火をもかならず過ぎて、要めて法を聞かぱ、かならずまさに仏道を成じて、広く生死の流れを済ふべし〉と。』
と説かれています。現代語訳では、
『たとえ世界中が火の海になったとしても、ひるまず進み、教えを聞くがよい。そうすれば必ず仏のさとりを完成して、ひろく迷いの人々を救うであろうと。』
一つのお経さまに同じ内容が二度も説かれる、そこには大切な意味があるのでし
ょう。梯和上はこうお教えくださいました。
 「…、火の中くぐったら“いのち”ないでしょ。これはね“いのち”をかけても聞かねぱならないことがあるんだぞ。とお教えくださってるんでしょうね。“いのち”をかけても悔いのない教えがあるんだ。それが,なもあみだぷつ’の
阿弥陀さまのおはたらきです。しかし、考えてみると今私がこうして‘なまんだ
ぷ、なまんだぶ…’とお念仏ご相続できてるということは、火の中くぐるように
してこの教えを受け伝えていってくださった人たちがいらっしやったということ
でしょう。私は火の中をくぐった覚えはないけれども、今現に私がこうしてお
念仏出来ているということは“いのち”をかけてこの阿弥陀さまの教えを味わい
お伝えくださった方がいらっしやったといただいてもええんじやないかな…」
 もちろんご法義が伝わってくださるのは阿弥陀さまのご本願のおはたらきであ
りましょう。その上でこの阿弥陀さまのご本願をまさに“いのち”をかけるよう
にしてお昧わいくださりお伝えくださった方々がいらっしやったということも
間違いのないこととしてお聞かせをいただかねばならないということでしょう。
〈なんか知らんけど、何でもええから聞いとったらええ〉のんと違うんです。
私の「なんまんだぶ、なんまんだぶ」というお念仏の中には阿弥陀さまの、そし
てご往生くださった多くの方々の“どうぞこの教えを聞いてさとりのみになって
くれよ”という私の。いのち’を支えてくださっているおはたらきがあるのであ
ります。暑いときは暑い中でのお念仏であります。          合 掌

せ けん げ
世間解 第二八四号
   平成二十三年 十 月
       発行 西法寺
 
                    
                    
  念仏もうさるべし  
        ーお念仏の日暮しー   
                    
                    
 十月であります。皆さま方にはご本願のおはたらきの中、お念仏ご相続のことと思います。
 十月というと「秋やなぁ〜、秋刀魚か〜」とウキウキすることでありますが、「今年も後三ヶ月ですね」などとお聞きすると「あらま」という思いと同時に、何かうかうかと日を過ごしているなと感じることであります。
 うかうかと言いますと、先月改めて味わったことがありました。
“阿弥陀さまのお浄土が西にあってくださる”ということの有り難さと、そのことにあまりに無頓着であったなぁと気づかされた有り難さであります。
〈お浄土が“西”にあってくださるのは、我々の“いのち”の本当の帰り場所を“西”という方角がお示しくださっているんだよ。〉
と先生方がよくお教えをくださるのであります。
私もその通りにいろいろなご縁でお同行さま方とお聞かせをいただいてきました。その時には「お日さんが西の方に帰って行かれるじゃないですか。あの方角ですよ」などとお話しをさせていただいておったのであります。
今年気づかせていただいたのは“お日さんはお彼岸の時だけ西に沈むんとちゃう”ということであります。お日さんは一年中、毎日欠かすことなく西の方角に沈んで行きます。“ああ、お彼岸やらなんぞの時しか〈お浄土が西にあって…〉とか思えへんかったけれども、毎日お浄土の場所を教えてくれてたんやなぁ。ウカウカと日暮らしをしていたなぁ”と気づかせていただいたことでありました。
ウカウカと日を過ごす私に阿弥陀さまのご本願が間違いなく届いてくださり、その力が私の口から「なんまんだぶ、なんまんだぶ」というお念仏になって「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と私の耳に、心に届き“ああ、間違いなしに阿弥陀さんおはたらきくださってんねんなぁ。ご往生くださった人ら今、私を支えてくれてんねんなぁ”と味わわせてくださるのであります。
お念仏申すことです。そしてそのお念仏を“阿弥陀さまのおよび声である”といただくことです。
『又いはく、現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。念仏のさまたげになりぬべくば、なになりともよろづをいとひすてて、これをとどむべし。いはく、ひじりで申されずば、めをまうけて申すべし。妻をもうけて申されずば、ひじりにて申すべし。住所にて申されずば、流行して申すべし。流行して申されずば、家にゐて申すべし。自力の衣食にて申されずば、他人にたすけられて申すべし。他人にたすけられて申されずば、自力の衣食にて申すべし。一人して申されずば、同朋とともに申すべし。共行して申されずば、一人籠居して申すべし。衣食住の三は、念仏の助業也。』
これは親鸞聖人のお師匠さまである法然聖人のお言葉であります。
〔法然聖人はおっしゃった。この世の中を過ごしてゆく本当の生き方は、お念仏できるように生きることですよ。お念仏できないようなご縁ならばどんな事であっても避けて行かねばなりません。どういうことかといえば、聖者の暮らしをすることによってお念仏が申しにくいのであれば結婚をしてお念仏の日暮らしを送りなさい。妻帯することによってお念仏申しにくければ聖者の日暮らしのママでお念仏しなさい。一所にとどまる事によってお念仏ご相続しにくいならば彼方此方に遊行しながらお念仏しなさい。うろうろしているからお念仏申しにくいならば住所を定めてお念仏申すことです。自分の力だけで生計を立てる事ができないからお念仏できないと言うのなら人に助けられながらお念仏を申しなさい。人に助けられることがお念仏申すことの妨げになるのなら自分の力で生活しながらお念仏の日暮らしを送りなさい。独りぼっちだからお念仏できませんというなら仲間とともにお念仏しなさい。他の人と一緒だからお念仏しにくいなというなら一人きりになってお念仏しなさい。寒さをしのぐ着るものや、“いのち”を支える食べるものや雨露をしのぐ住まいはすべて私がお念仏をご相続させていただくための助けとなるものなのですよ。〕ざっとこんなお心でしょうか。
 私がお念仏申したから何かいい事が起こったり、悪いことが起こらないのではありません。どんなご縁にあうかわからない私に阿弥陀さまのおはたらきが届いてくださっているから私はお念仏申すことができているのであります。 合 掌

せ けん げ
世間解 第二八五号
   平成二十三年 十一 月
       発行 西法寺
 
                   
                   
  念仏もうさるべし 
        ーお仏壇の心ー  
                   
                   
 皆様にはそれぞれのご縁の中、阿弥陀さまのご本願に包まれてお念仏ご相続のことと思います。十一月になりました。月日の流れの早さをつくづく感じることでありますが、それでも「ああ、早いなぁ」などと呑気にいえるご縁に恵まれておることのありがたさを思うことであります。
 お同行さまから時々「お仏壇にはどんなものをお供えしたらエエンですか」とか「こんなんお仏壇にお供えしてもエエでしょうか」などと言うことをお尋ねいただくことがございます。我々の先輩方が〈お仏壇〉と言い習わしてくださったように、〈お内仏さま・お仏壇〉というのは“阿弥陀さま”をご安置する場所であります。もっといえば“阿弥陀さまのお浄土が私の家に顕れてくださった尊い空間”として拝ませていただくのであります。その阿弥陀さまと全く同じおはたらきを先立たれた方々がなさってくださっている。阿弥陀さまを通して先立たれた方々をご往生くださった方といただき。ご往生くださった方のお写真の向こうに阿弥陀さまのおはたらきを味わっていく。そういう空間がお仏壇の前でありましょう。そんな事で私はいつも「ご往生になられた方を思い出しお偲びできるものをお供えくださったらエエですよ。」と申しあげています。
お仏壇をお飾りしたり、お供えすることをお荘厳とよんでいますが、そこにはご往生くださった方を偲ぶ一面ともう一つ大きな意味があることを利井明弘先生からお聞きしたことがありました。
『…僕の弟ね、富山へ養子に行ってん。雪山隆弘いうねんけど。五十歳で亡くなってしもたけどね…。その弟がまだ元気な時ね、夏の終わりやらに家族でうちの寺に帰ってくるんよ。里帰りやんか。弟が帰ってくるいうたらうちの母がそわそわバタバタしてね、テーブルの上にお菓子置いたあるから手ぇ伸ばして食べよ思たらね「あんた、何してんの!ソレはあの子らが帰ってきたら食べさそ思て置いたあるんやさかいな、食べなさんな!」いうて怒るんよ。弟らに食べさすて、帰ってくんのまだ半月も先やんか。それにそんな事いうてね。そらもう楽しみでたまらんねん。ほんで、なんやかんやいうてはこちょこちょ用意すんねん。「いっぺん蚊帳つってその中で孫ら寝かせたろか」とかね。色々すんのよ。ほんで別に長男の僕に気ぃ使わんでもエエのに、なんか知らんコソコソ、コソコソやってんねん。ほんで、“いよいよ今日帰ってくる”いうたらねもう朝から玄関先やら庭一面にバーッと水撒くねん。ホ−スで。十分も二十分もかけてね。そやけど夏のさなかやからすぐに乾いてしまうねん。ほんならまた出て行って水撒くねん。あのね、今と違て携帯電話とかないからね、いつ帰ってくるか分からんのよ。電車やったら何時に大阪着いて、そこから高槻までいうてだいたい時間分かるけど、車で帰ってくんねん。そやから何時に着きよるや分かれへんのですわ。途中で休憩したりね、‘ちょっとココ寄ってみよか’なんかいうてたら何時に着くやら分かれへんでしょ。そやからね「お母さんもう止めときて、なんぼ水撒いたかてすぐ乾いてしまうんやさかい。そんな事より暑いさなかに外で長いこと水なんか撒いとったら日射病なってしまいまっせ。もう止めてはよ家ん中入っときなはれ」いうたら「分かった、分かった」いうていっぺん入んねんけどすぐまた僕の目ェ盗んで外出て撒いとるわね。そうこうしてたら弟、夕方ぐらいになってやっと帰ってきよってね。ほんでこう言うねん「なんや、兄ちゃんワシ今朝富山からずーっと走ってきたけどええお天気やったのにこの辺は夕立でもあったんか?」いうてね、親が一生懸命なって水撒いとったん知らんと。けど「ああ涼しいなぁ」いうてね涼しいのは分かるねんな。皆さんよろしいか、待ってる者が帰ってくる者を迎えるために一生懸命になってあれこれ整える。お荘厳いうのはこれよ。お仏壇ならお仏壇のお荘厳はね。“阿弥陀さんやご往生くださった方が私を迎えてくださるためにこうして迎えてくださるんやな”いうて味わわせていただくもんなんですよ。だからお花こっち向いたあるわね。仏さんにお供えすんねんやったら仏さんのほう向けなアカンでしょ。ほんまやったら。ソレをこっち向けてお供えしてんのは“阿弥陀さんや、ご往生くださった方々はこんな風にお浄土を荘厳って私を待ってくださってんねんなぁ”いうて味わわせてもらうんですわ。わかるでしょ…。』お仏壇のお供えや、お荘厳は先立たれた方が私を思ってくださるお相でもあったのであります。              合 掌

せ けん げ
世間解 第二八六号
   平成二十三年 十二 月
       発行 西法寺
 
                   
                   
  念仏もうさるべし 
   ー住職雑感
     歳の暮れに少し反省しましたー
 
 日が重なり十二月になりました。「しかし、早いですね〜」と言うことの出来るご縁に恵まれていることをありがたく思うこの頃であります。
皆さま方には阿弥陀さまのご本願に潤されながらお念仏ご相続のことと存じます。
 桐溪順忍という和上様がおられました。昭和六十年にご往生になられましたので今年が二十七回忌の年にあたります。
大変ありがたい和上様でありました、「今までのことを振り返って‘これからはこういうようにさせていただこう’と心をあらたにさせていただくということがあるんやないかいのぉ…」桐溪和上がご法話で「心あらたに」ということをこんな言葉でおっしゃった事がございました。
私も‘これからこうしよ’と決めた事が色々とありましたが大体は‘そやこうしよ’と決めたときには例えば‘よしお正月からしよ’てな具合に日を決めてやろうとするのであります。
 お正月からと決めて、ちゃんと出来るかというたら出来ませんで、気がついたらお正月が明けてしもて‘しゃあないなぁ、まあ三が日がすんでから…’とか言うてるうちに三が日も明けてしもて‘そうや、成人式からにしよ’とか言うてるうちに何をやろうと決めたかもすっかり忘れてしまう…。というようなことが多いのであります。
 私などは‘こうしようと決めた!’というのは‘あれはやめました’という始めでしかないのでありますが、これは自分の気持ちや縁に任しているからであります。
私は自分の我を通すことはすぐに始めるのですが…。
「こうしよう」と思い立ったら、‘何時いつになったらやろう’ではなくてその時から始めましょうということでありましょう。
 一遍上人という方がおられました。時宗の開祖と仰がれるお方であります。この一遍上人は最初〈随縁〉というご法名であったそうであります。後に師匠になられるお方から「随縁という法名はあまりよくない」とおさとしを受けて一遍というご法名にされたそうであります。
〈随縁〉縁に随うという事であります。私どもは縁に随っていると残念ながら自分の好きな縁にしか随いません。
 人の悪さはすぐに気がつくが、自分が指摘されると一生懸命隠そうとする。人にはズケズケ言うが自分が言われるとムッとする。ちょっと気に入らないことがあると当たり散らす。…全部私の相であります。これは自分の好きな縁に随っているからに他なりません。
そんな、自分の好きな縁にしか随わずそれが為に周りに迷惑をかける生き方をしてしまう私を矯め直してくださる力が阿弥陀さまのご本願のおはたらきなのでしょう。
仏教では自分の好きな縁にしか随わないことを‘自由’といいます。
‘自由の邪見’自分が絶対に正しいと考え、思うさまに振る舞うことを言います。
 いろいろな縁の中で大変苦しい状況に置かれている青少年の自立と矯正を助ける活動をしてくださっている藤大慶という先生が今年三月の西法寺定例で、
「皆さまが今日この西法寺にお越しくださっている、お越しになれているということは“不自由”だったからです。自由なら私たちはお寺に参ることはいたしません。」とおっしゃってくださっていたことを思い出します。
 阿弥陀さまのご本願、本願力によってお寺に参ろうという気を発していただき、寺に参るよりも他にやりたいことがある…という自由な思いを不自由なものに変えて寺に参ってください。
 不自由な思いで、つまり自分のやりたいようにするという自由な思いを少し置いて、寺に参ってください。
 寺に参ってご法義に潤されて、本当の心の自由を阿弥陀さまに、ご法義に育まれながら、お互いさまに味わい己の心の中にはぐくませていただきたいものであると思っています。
私の善し悪し・好き嫌い…。いろんな感情を超え包んで阿弥陀さまは「なんまんだぶ」というお念仏になって私を支えてくださっておるのであります。 合 掌
 
 
 
 

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