2020(令和2年)世間解 念仏もうさるべし


1月  第383号

阿弥陀さまの願いの中で
 

新しい年を迎えました。
令和2年。みなさま方にはご本願のおはたらきの中、お念仏ご相続のことと思います。
昨年中は大変お世話になりまして誠にありがとうございました。縁の中では何がやってくるか分からない日暮らしでありますが、
本年も何卒よろしくお願い申しあげます。

 昨年の大晦日にもたくさんの方が鐘をつきに来てくださいました。
響いた鐘の音が206回。
そして今年も100人を超える方がご本堂にお上がりくださり修正会のお勤めにお遇いくださいました。

 「お正信偈」さまのお勤めの間に皆さまに阿弥陀さまの前までお進みいただきお焼香をしていただきました。

 お一人お一人が各々のご縁の中で、各々の願いを持ってお焼香くださったことであろうと思います。

願いということを考えるのであります。

 仏教ではその願いが
自分に都合のいい思いだけを満たそうとする心を貪欲(むさぼりのこころ)という煩悩であると戒めてゆきます。

自分に都合の良いことだけを求める心を“我欲”ともいいます。

 しかし、その求める心が自分に都合の良いことや、自分だけの幸せではなく、他の人の幸せ、他の人の喜びの実現に向かった時それは“我欲”ではなく
“欲願”となり明るい希望となるのであります。

私たちは色んな願いを持ちます。
阿弥陀さまの教えに遇わせていただくまでは、「自分が欲しいもんほしがって何が悪いねん」と“貪欲”を“貪欲”と思わずに。あたりまえのことと考えていたはずであります。

阿弥陀さまのご本願のお育て遇わせていただく事によって“貪欲”を“貪欲”と知らされ、少しづつ自分勝手な我欲にブレーキがかけられて行くのであります。
100%自分に向いていた我欲が少しづつ自分以外の方へと心が向けられるようになります。
他の幸せを願うことを慈悲というのであります。

私がおこす慈悲は何処まで行っても自分自身に何%、自分以外に何%と必ず割合があります。

阿弥陀さまは違うのであります。100%他の“いのち”のことを思い続けはたらきてくださっているのが阿弥陀さまなのであります。

 自分はどんな願いを持っているかということを思うのであります。

ともすれば自分のことしか考えない私。しかしその中でも他に対して願いを持つことがある。

 
浄土真宗では現世を祈る、いまの私の上に(それがたとへ他の人に対しても)
何か良いことが来ますように、悪いことが来ませんように…といういわゆる
“現世利益”を祈るということはいたしません。

 我々が“いのち”恵まれている娑婆というこの世界は私が何かを祈ったからといってそれが解決するような甘い処ではないからであります。

縁の中では怪我もし、時には病気にもなって行かねばなりません。

 自分が、自分の周りがそういう縁に遭ねばならなくなった時、私たちは祈りや願いを持たずにはおれません。

 
たった今もそう、今までもそう、これからも色んな縁の中で、色んな思いを持ってゆかねばならない(時には現世の何かを祈ってしまうような)もろい心の私を、言葉をかえれば“何かを願わねばならないような私”を決して途切れることなく願い続け支え続けてくださっておるおはたらきがあってくださっていると安心させていただくことであります。

それが私がお念仏出来ておることなのであります。

私は願い続けられているものだったのであります。

 その中で、出来る限りのことをし続けて行く。その私たちをつねに支え導き育て続けてくださっているご本願のおはたらきがあってくださっている。
 ともすれば我欲におぼれてしまう私に欲願(正しい願い)を希望を持たせてくださる阿弥陀さまの願いがあってくださるのであります。                                                                      合 掌

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